ウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』
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「タマム・シュッド事件」の記事における「ウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』」の解説
陪審が開かれていたのと同じ頃、遺体のズボンのポケットの奥に縫い付けられていた隠しポケットから、"Tamam Shud" と印字された小さな巻紙が発見されていた。文字の翻訳のために公共図書館から司書が招聘され、ウマル・ハイヤームの詩集、『ルバイヤート』の最終頁から破りとられたものであり、「終わった」、あるいは「済んだ」という意味であることが判明した。紙片の裏面は白紙のままだった。警察はオーストラリア国内中を捜索し、似たような白紙の裏面がある同書の版本を見つけ出そうとした。紙片の写真が各州の警察に送付されたほか、一般にも公開されたことにより、ある男性が、エドワード・フィッツジェラルド(英語版)による1859年の英訳『The Rubaiyat』で、1941年にニュージーランドで出版された版本を警察に届け出た。この版本は、遺体が発見された頃、その男性がグレネルグのジェッティー通りにドアを施錠せずに駐車した際、後部座席に何者かに置かれたものであった。その男性はその本と事件が関係あるとは知らなかったが、前日の新聞を見て関連に気付いた。この男性の身元や職業については、男性が匿名を希望したため公開されていない。 本が車で発見された正確な時間については不明な点も残っている。本の発見は遺体発見の1~2週間前であると報じた新聞もあれば、元刑事のゲリー・フェルタス(Gerry Feltus)のように、本が発見されたのは「男性がソマートンの浜辺で発見された直後である」と報告する者もある。預けられたスーツケースから、遺体の男性がアデレードにやって来たのは浜辺で発見された前日であると仮定すると、本発見の時間は重要性を持つ。もし本の発見が遺体発見の1~2週間前であると、その頃遺体の男性が既にアデレードにやって来ていて、一定期間滞在していたとも考えられるからである。 四行詩集『ルバイヤート』は、人間は心行くまで人生を生き、死に際しては後悔のないようすべきである、というのが主題である。詩の内容から、警察は他に証拠がないにもかかわらず、男性が服毒自殺したと仮説を立てた。発見された本は、最終頁の "Tamam Shud" の文字が破り取られており裏面も白紙であった。顕微鏡による検査も、発見された紙片がその本から破り取られたものであることを示していた。 本の裏表紙には、アルファベットの大文字が以下のとおり5行、鉛筆による手書きで記されており、2行目には取消し線、または下線のようなものも書き加えられていた。この2行目は、似た文字の並ぶ4行目を書き損じたものと見られ、文字列が暗号であることを示す重要な根拠となっている。 WRGOABABD MLIAOI WTBIMPANETP MLIABOAIAQC ITTMTSAMSTGAB 最初の行と3行目の書き出しの文字は、"M"なのか"W"なのか判別しづらいが、4行目の "M" と形が違うことから、"W" に違いないと考えられている。また、2行目の最後の文字は"L"にも見えるが、よく観察すると"I"であり、実際には取消し線、または下線により"L"のように見えているだけであり、他の部分の"L"は下の線が丸く湾曲していることが分かる。また、4行目の"O"の上に"X"のような印も見えるが、これが文字列の一部なのかは分っていない。文字列は、暗号と考えられるより前には外国語であると考えられていた。暗号の専門家が解読のために招聘されたが文字列を解読することはできなかった。文字列は1978年にオーストラリア国防省も分析したが、文字数が不充分でパターンを解析できず、精神的動揺から反射的に書かれた無意味なものかもしれない、との見解を示した。国防省はさらに、「満足行く答え」を提供するのは不可能だろう、とも述べている。 本の裏表紙には電話番号も記されており、グレネルグの遺体発見現場から400メートル程北のモーズリー通りに住む元看護師のものであることが分かった。その女性の証言では、彼女がその『ルバイヤート』を所有していたのは、シドニーの病院に在勤していた第二次世界大戦中のことであったが、1945年に、オーストラリア陸軍の水上輸送部門に所属する、アルフレッド・ボクソール (Alfred Boxall) という名の中尉に、シドニーのクリフトン・ガーデン・ホテルで渡したのだという。 報道されたその女性の証言では、彼女は終戦後にメルボルンに移り、そこで結婚したという。後にその女性はボクソールから手紙を受け取ったが、ボクソールにはもう結婚していると伝えたという。また女性は、1948年に近隣で彼女について尋ね歩く男がいた、とも述べている。女性の結婚後の姓を知らなかったボクソールが、1945年以降に彼女と接触した証拠はない。女性はリーン部長刑事 (英語: Detective Sergeant Leane) に、遺体から型取りされた石膏の胸像を見せられているが、誰であるのか断定しなかった。リーン刑事は、女性が胸像を見た時の反応を「ほとんど卒倒しそうな程なまでに完全に驚いた」と記述している。石膏の型取りを行った技師で、女性が胸像を見た時にも現場に居合わせたポール・ローソン (英語: Paul Lawson) は、2002年のインタビューで女性のことを「トムソン夫人」 (英語: Mrs Thomson) と呼んでその時の様子を、「(女性は)胸像を見るとすぐに目をそらし、二度と見ようとしなかった」と述べている。 警察は一時、遺体はボクソールのものであると考えたが、彼が1949年7月にシドニーで健在であり、『ルバイヤート』 (シドニーで1924年に発行された版) もまだ所持していることが分かった。その『ルバイヤート』の最終頁から "Tamam Shud" は破り取られていなかった。ボクソールはその頃シドニー近郊のランドウィックのバス停の車両整備部門に勤務しており、自分と遺体の男性との関係について、全く心当たりがないと述べている。ボクソールに渡された『ルバイヤート』の表紙に、女性は詩集の中から第70番の詩を書き写していた。 女性は遺体の男性については何も知らず、死亡する前になぜ彼女の住む町にやって来たのかも分からないと述べている。また、女性は現在結婚しており、遺体の男性やボクソールとの関係が公になると周囲からいやがらせを受ける可能性があるとして、自分の名前が記録に残らないよう警察に訴えた。警察はこの 訴えを認めたため、その後は最も有力な手掛かりの1つがないまま捜査を続けることとなった。この事件を特集したテレビ番組でボクソールはインタビューを受けている。その中で彼が女性の名前を出している箇所は「ジェスティン(Jestyn)」という名に吹き替えられていた。この名は『ルバイヤート』の表紙に書き写した詩に、女性が添えた署名、JEstyn から取られたものであるが、番組内で本が映し出される時は、署名部分は隠されていた。この名はおそらく女性の愛称であり、彼女はボクソールに対してもその名を名乗っていたと思われる。未解決事件を研究している元刑事のゲリー・フェルタスは、2002年に「ジェスティン」にインタビューを行ったが、彼女が「逃げ腰」で「何も話したがらない」のを感じた。女性はまた、彼女の家族は自分と事件の関連について何も知らずにいるため、自分の身元や身元特定につながるいかなることも公開しないことを望み、フェルタスもそれに同意した。フェルタスは、ジェスティンはソマートン・マンが誰なのか知っているものと信じている。ジェスティンは警察に対し結婚していると話しているが、実際には当時未婚であった。警察は彼女の本名を記録に残さなかったため、警察がそのことを把握していたかは分からない。研究者達が事件の再調査を行い、ジェスティンの足取りを追跡したところ、彼女は2007年に亡くなっていたことが分かった(テレビ番組『60 ミニッツ』参照)。その女性の本名はそれが本の暗号解読の鍵である可能性があるから重要な手がかりと考えられている。フェルタスは2010年の自身の著作において、女性の夫の家族から本名公開の許可を得たと述べているが、彼がその著作に記した名前も家族の関与により偽名となっている。
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