イスラム帝国時代
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634年、最初のムスリム(イスラム教徒)がパルミラにたどり着き、ハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム帝国の初代カリフ、アブー・バクル(在位632-634年)の正統カリフ軍(英: Rashidun army)がパルミラを占領し、アラブ人イスラム教徒が支配する町となった。パルミラは、ウマイヤ朝(661-750年)のカリフのヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク(在位724-743年)が統轄したアル=ハイル・アル=ガルビ城(英語版)(カスル・アル=ハイル・アル=ガルビ〈パルミラ西南63km〉)とアル=ハイル・アル=シャルキ城(英語版)(カスル・アル=ハイル・アル=シャルキ〈パルミラ東北105km〉)の間に位置し、それら2か所の城塞ともパルミラ繁栄時代の灌漑設備を再利用したこともあり、パルミラは軍事および経済における要衝となった。ウマイヤ朝最後の第14代カリフ、マルワーン2世(在位744-750年)の時代、745年にパルミラで惹起した反乱を鎮圧するとともに、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の時代の周壁を撤去している。しかし、アッバース朝(750-1258年)の時代になるとパルミラはカリフから無視され、1089年の大地震で被害を受けた後、パルミラはほぼ完全に放棄された。 パルミラは、12世紀にダマスカスを支配したブーリー朝(1104-1154年)、12-13世紀のアイユーブ朝(1171-1250年)、13-16世紀のマムルーク朝(1250-1517年)において重視されるようになると、ベル神殿は要塞化されるとともに、本殿はイスラム教のモスクに転用された。また、シリア砂漠を抑えるための拠点となるオアシスの重要性はこの時代も変わらず、パルミラ遺跡の西側の山上にあってオアシスを見下ろす大きな城塞(アラブ城(英語版))の当初の基礎は、ホムスの領主による1230年にさかのぼり、マムルーク朝の陶器も認められている。14世紀前半の歴史家で高級官吏であったイブン ・ファドル・アッラー・ウマリー(英語版)は、当時のパルミラの盛んな商業活動や邸宅・庭園について記している。その後、モンゴル(ティムール朝)のティムール(在位1370-1405年)がシリアに侵入し、1400年にアレッポを占領した後、1401年に支隊をパルミラに侵攻させた。
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イスラム帝国時代
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イスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースは、639年にエジプトへの侵攻を開始して東ローマ帝国の駐留軍を破り、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築き、「フスタート」の名を与えた。フスタートは現在カイロ市内の一部となっている地区である。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努め、フスタートはその後、ファーティマ朝時代まで一貫してエジプトの首府の地位を保つこととなった。フスタートはその後、ウマイヤ朝、アッバース朝のエジプト州治所となった。7世紀のアッバース朝時代にはフスタートの北部にアスカルという新しい町を築き、ここがアッバース朝のエジプト支配の拠点となった。 9世紀に入るとアッバース朝は弱体化が顕著になり、868年にはトゥールーン朝が事実上独立してフスタートに首都を置いた。トゥールーン朝始祖のアフマド・イブン=トゥールーンは870年にはアスカルのさらに北にカターイーの町を築き、イブン=トゥールーン・モスクを建設した。その後トゥールーン朝は弱体化して905年には再びアッバース朝に征服されたものの、既にアッバース朝に昔日の勢いはなく、935年には再び半独立のイフシード朝の首都となった。
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