イスラム弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:17 UTC 版)
広大な国土の中でも、中央アジア地域ではイスラム教が大きな勢力を持っていたが、ソビエト連邦の成立とともに正教など他の宗教とともに弾圧されることとなり、ムスリム宗務局によって国家統制された。しかし人々の心の中の信仰心までは抑えることができず、他の宗教と同じくソ連崩壊後は教勢が回復した。 信仰されていた地域に偏りはあったものの、全ソビエト連邦領内におけるイスラム教徒の人口は最終的に7000万人前後にも達し、総人口の実に4人に1人がイスラム教徒(もしくはイスラムを文化的背景に持つ人)で占められていた。この数字はイラン、トルコ、エジプトなどの総人口にも匹敵し、ソビエト連邦は総人口においても、国民に占める割合においても、非イスラム教国家としては最大級のムスリム人口を抱える国家となっていた。 イスラムが多数派の地域以外のロシア連邦などの諸州においても、イスラムを背景に持った諸民族、特にタタール人、アゼルバイジャン人が全土に居住し、ソビエト連邦内のどの地域においても一定数のイスラム社会が存在していた。この点は同じ非イスラム教国でありながら全土にイスラム社会を内包しているインドや中国とも共通していた。 ただソビエト連邦におけるイスラムは、中国やインドとは異なり、多数派民族と、文化、言語、血統、形質などを共有する集団、具体的に言えば、スラヴ系のロシア人などと文化や言語を共有する集団の間にはあまり広まらなかった。ソビエト連邦内のイスラムはあくまでテュルク系やイラン系、コーカサス系などの、(多数派民族であるロシア人から見た)異民族の間で主に信仰されていた。全土に幅広く分散していたイスラム系民族のうちタタール人の間にはスンニー派が多く、アゼルバイジャン人の間にはシーア派が多いため、両派が近い比率で全土に散らばっていたこともユニークである。この点はソビエト連邦崩壊後も、ロシア連邦において引き継がれている。
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