イスラム支配とレコンキスタ
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「ポルトガルの歴史」の記事における「イスラム支配とレコンキスタ」の解説
7世紀にイスラム教のもとに結束したアラブ人が各地へと征服戦争を展開し始めると、彼らの勢力は北アフリカの西部に達した。711年にイスラーム勢力はジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出し、西ゴート王国を滅ぼした。715年までに最北部を除くイベリア半島全域はイスラーム勢力の支配下に入るが、アラブ人と征服活動に従軍していたベルベル人の間で内戦が起きる。755年にイベリア半島に上陸したウマイヤ家のアブド・アッラフマーンは内乱を鎮定し、翌756年にこの地で後ウマイヤ朝を創始した。イスラーム勢力の影響下に置かれなかったイベリア半島北部では、718年に西ゴート系の貴族ペラーヨを王とするアストゥリアス王国が建国された。1031年に後ウマイヤ朝が断絶した後、イベリア半島にはタイファと呼ばれる小王国が乱立したため、イスラーム勢力は弱体化する。 イベリア半島のイスラーム化の波はポルトガルにも及び、キリスト教徒とユダヤ教徒は信仰を容認されていたが、大部分のポルトガル人はイスラム教に改宗した。イスラーム勢力下の地域では従来どおりラテン語が常用語の地位を保っていたが、植物、道具、度量衡、馬車、馬具に関する専門用語はアラビア語から借用された。ポルトガルの科学と文化の発展には、イスラーム世界の学者が大きな役割を果たしている。インド洋を航行するためのイスラーム世界の造船技術は、ポルトガルに入った後に大西洋の航行に適した形に応用された。レンガ舗装、有蓋煙突、タイル張りの壁と言ったイスラーム建築の特徴がポルトガルの建築に導入され、後の時代にはイスラム風の幾何学模様のタイル壁画に代わって、戦争や日常生活を描いたタイル壁画がキリスト教徒の手によって制作される。農業の分野では水を汲み上げる水車の導入によって灌漑技術が発達し、手動の粉砕機に代わる機械が普及した。 10世紀頃からレオン王国、アストゥリアス王国などがレコンキスタと呼ばれる「国土回復運動」を展開し始めた。868年にアストゥリアス王アルフォンソ3世はドーロ川河口の都市ポルトゥカーレを征服し、ヴィマラ・ペレス(英語版)にこの地を与える。1064年にはキリスト教国家とイスラーム勢力の係争の地となっていたコインブラがレオン王国に征服され、レオン王フェルナンド1世はモサラベのセズナンドにコインブラの支配を委ねた。ドーロ川とミーニョ川の間に広がるポルトゥカーレ伯領、ドーロ川とモンデゴ川の間に広がるコインブラ伯領が、後のポルトガル王国の中核になる。1096年、カスティーリャ=レオン連合王国のアルフォンソ6世は、娘婿でブルゴーニュ家の騎士アンリ・ド・ブルゴーニュ(エンリケ・デ・ボルゴーニャ)にポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領を併せて与えた。アンリの領土は北部のガリシア地方では領主制が支配的であったのに対して、南部には広く自治権を認められた都市共同体が組織されており、南北の地域格差はポルトガル独立の一因になる。 1086年に北アフリカからイベリア半島に進出したムラービト朝とカスティーリャ王国の軍隊がサグラハスの戦いで衝突し、勝利を収めたムラービト朝はアンダルス地方を併合する。ムラービト朝が衰退した後、1145年に北アフリカのベルベル人のイスラーム国家ムワッヒド朝がイベリア半島に進出した。
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