エジプト公債をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:53 UTC 版)
「イヴリン・ベアリング (初代クローマー伯爵)」の記事における「エジプト公債をめぐって」の解説
1876年3月にエジプトの副王イスマーイール・パシャの王庫がデフォルトに陥り、エジプトは財政破たんした。債権国のイギリスとフランスは5月にも共同で「公債整理委員会」を設置。エジプト財政は同委員会の管理下に入った。ベアリングは同委員会の英国委員の一人に選ばれた。 「公債整理委員会」は副王イスマーイールに強要して、ヨーロッパ人が財政関係の閣僚として入閣する「ヨーロッパ内閣」を誕生させるとともにエジプト人から過酷な徴税を行った。その結果、エジプト人の間に反ヨーロッパ機運が高まり、反乱勃発を恐れたイスマーイールが反ヨーロッパ政策を取るようになり、1879年4月にもヨーロッパ人閣僚が罷免された。ベアリングもこの際に公債委員会委員辞職に追い込まれた。 しかし英仏の圧力によってイスマーイールは6月にも退位に追い込まれ、タウフィーク・パシャが新たな副王に即位した。これにより再び英仏のエジプト財政支配が確立され、ベアリングも9月付けでエジプト財政監査官となった。半年ほど勤めたが、1880年にはインドへ帰還した。 この後、エジプトではオラービー革命が発生し、反ヨーロッパ派のエジプト民族主義者アフマド・オラービーらが政権を掌握したが、これによってエジプトと英仏との対立は深まり、イギリスは1882年7月にもエジプトへの武力侵攻を行い、9月に同国を軍事占領した。以降エジプトの統治権は事実上イギリスによって握られることになった。
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