外交政策とシリアをめぐる抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:42 UTC 版)
「ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の記事における「外交政策とシリアをめぐる抗争」の解説
イフシードはエジプトの統治者兼軍司令官として忍耐強く慎重に振る舞った。そしてバグダードのアッバース朝政権の実力者との結びつきや交渉によって、実力行使に及んだ場合と同程度に多くの目標を達成した。また、アフマド・ブン・カイガラグと対立した際の行動に見られるように、イフシードは実力行使に出る場合でも可能な限り直接的な軍事対立を避ける傾向にあった。この対立では直接戦闘に及ぶ代わりに休戦協定を結び、行動を起こす前にエジプトの状況を探る時間を得た。 イフシードはアフマド・ブン・トゥールーンと同様の足跡をたどったが、シリアやその他のアッバース朝の領域に対する政策において特に明らかであったように、その野心はより控えめであり、目標はより現実的であった。歴史的にシリア、特にパレスチナの保有は、エジプトへの最も重要な侵入路を防ぐ必要性から、エジプトの多くの支配者にとって外交政策上の重要な目標となっていた。イフシードより前の時代のアフマド・ブン・トゥールーンと後の時代のサラーフッディーンは、シリアの支配を確保するためにその治世において多くの労力を費やし、実際にその目標を達成するために歳入と資源の大部分の調達先としてエジプトを利用した典型的なエジプトの支配者の例であった。しかし、イフシードはこれらの支配者とは異なっていた。バカラクはイフシードを「慎重で保守的な現実主義者」と表現している。イフシードの目標は限定的ではあったものの明確だった。主な関心事はエジプトの安定化とエジプト一帯を支配する世襲王朝としての家門の確立であり、シリアの支配は副次的な目標に留まった。また、当時の他の軍閥の有力者とは異なり、イフシードは全権を有するアミール・アル=ウマラー(英語版)(大アミール)の官職を通じてバグダードとアッバース朝政権を支配する争いに加わる意思はなかった。実際にカリフのムスタクフィー(在位:944年 - 946年)がその地位を与えると持ちかけた時にイフシードはその提案を断っている。
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