首相時の三木の生活と政治スタイル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
「三木武夫」の記事における「首相時の三木の生活と政治スタイル」の解説
三木は前首相の田中が利用しなかった総理大臣公邸での生活を選んだ。当初は首相就任直後の1975年(昭和50年)1月に入居予定であったが、公邸にはゴキブリとネズミが大量発生していて、とりあえず駆除をある程度行った上で、総理に就任して約4ヶ月後の3月になって三木は公邸に入居した。しかし相変わらずゴキブリは多く、食器もほとんど無くて来客対応にも事欠くありさまだったので、妻の睦子がとりあえず食器を揃えたという。また公邸は広いものの、書斎兼食堂兼居間のような日常私用する部屋が一つあって、あとは日本間、立派な応接間、客用の食堂などがあるという構造で、当時の首相公邸はあまり使い勝手が良くなかった。三木夫婦は三木の首相時代、通常月曜の朝から金曜の夕方まで公邸で生活し、金曜の夜には渋谷の南平台の私邸に戻り週末を私邸で過ごし、また月曜の朝に公邸へ戻るという生活をしていた。 また首相時代の三木の主席秘書官は、三木が大学時代に下宿をしていた下高輪の竹内君江家の子息、竹内潔であった。また他の秘書官には娘婿の高橋亘、報道担当には中村慶一郎らがいた。 前任者の田中が官僚を上手く利用していたのに対し、三木は官僚を積極的に活用せず、官僚外のブレーンを主に活用した。首相就任直後の三木の政治改革の方針を示した三木私案は、田中内閣の副総理を辞任した後に三木のブレーンである有識者らの意見を参考に取りまとめたものであり、独禁法改正案も小宮隆太郎らのブレーンの経済学者らの協力があったとされている。そして日米首脳会談でも平沢和重や国弘正雄らを活用し、ライフサイクル計画の立案には村上泰亮や小宮隆太郎らが係わっていた。これら三木のブレーンとなった学者の何名かは、大平政権、中曽根政権でも政権のブレーンとして活躍することになる。 三木政権では党の執行部は他派閥が握っており、三木派の人材不足もあって、政策の立案、調整や根回しは三木本人が行うことが多かった。三木は電話魔であり、自民党や財界ばかりではなく野党の幹部に至るまで、首相在任中の三木は、多い日には一日二、三十件の電話をかけていた。また三木は説得の手段として親書を送ることも多かった。演説に定評があった三木は、施政方針演説の原稿は各省庁の要望、専門家等の意見などを参考にしながらも、推敲を重ねて自らの政治姿勢を示すものにする努力を惜しまず、またテレビ出演や地方遊説に向かう最中も演説の推敲を続け、三木の鉛筆なめなめ病と揶揄されるほどであった。そして三木は一対一での説得を得意としており、三木おろしの際の福田、大平との会談でも三木の説得術の高さは遺憾なく発揮された。当時の政界には三木とさしで会うと危ないという言葉があったほどであった。
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