ライフサイクル計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
三木は高度経済成長後の日本では、安定成長、福祉向上を目指す必要があるとして、経済は量の拡大から生活中心、福祉充実といった質の向上への転換、新たな労使関係、労働慣行の確立、教育の重視などが重要であると考えていた。このような三木の政治理念、政治方針を踏まえ、三木内閣では池田内閣での所得倍増計画、田中内閣での日本列島改造論に当たる、目玉の経済政策としてライフサイクル計画(生涯設計計画)が立案された。 1975年(昭和50年)1月頃、首相になったばかりの三木は、自らのブレーン集団である新経済政策研究会から、国民が求めている福祉社会のビジョンを打ち出すべきとの提言を受けた。三木はこの提言に賛成し、これがライフサイクル計画立案のきっかけとなったとされる。三木は衆議院本会議の答弁で、1975年度(昭和50年度)中にライフサイクル構想を作成して、1976年度(昭和51年度)からは社会保障の長期計画を立てたいとの意欲を示した。この頃から新聞紙上でも三木がライフサイクル計画に意欲を示していることが報道されるようになった。ライフサイクル計画は60歳までの定年延長、65歳までの再雇用、65歳以降は年金で生活できるようにして、生涯を通じて安定し、生きがいのある生活を営めるようにするなどという内容も明らかになってきた。一方、年金制度の抜本的な改革の必要性や膨大な財源確保など、ライフサイクル計画が正式に発表される前から課題が指摘されていた。 ライフサイクル計画は、三木のシンクタンクである中央政策研究所が、総勢9名の経済学者、社会学者に依頼し、三木への個人的な提言として取りまとめられた。計画はこれからの日本が目指すべき福祉社会の展望を示したもので、人の生涯を通して経済的、社会的不安が無いよう十分な保障を与え、皆が安心してその人らしい一生を送れることを目的とする今後の福祉政策の基本構想を提唱していた。 三木に提出された提言では、まず自助、相互扶助を原則としながら、政府が国民の一生の各段階で必要となるナショナル・ミニマムを提供すること。そしてナショナル・ミニマムを越える部分は自助の努力で切り開くことを進め、自己責任に基づく創意工夫が必ず報われるシステムを社会制度に組み込むことを目指した。具体的には教育、住宅制度、雇用、年金、医療など、人の一生に係わる様々な社会的な仕組みの中には、不十分かつ中途半端なものや問題が多く改善を要すものが多いとして、全体をシステム化し、現行の様々な制度の再編成と充実を図り、更に新たな制度の導入も進めるとした。それにより誰でも努力をすれば家を持てる制度、新しい労働慣行と誰でもいつでもどこでも学べる教育制度、誰でもナショナル・ミニマムを保障される社会保障制度、そして誰でも安心して老後を過ごせる社会の4点の確立を大目標とした。 ライフサイクル計画の基本的な考え方としては、まず日本社会と経済には、高度経済成長がもたらした社会的変化に対する対処、欧米追従という大目標の喪失後にどう対応するか、脱産業化にどう対処するかという3つの課題があるとした。このような課題の克服には、新しい日本的システムとして個人と社会の調和を進めるべきであるとした。三木もライフサイクル構想に基づき1976年(昭和51年)1月の施政方針演説で「英国型、北欧型でもない日本型の福祉政策を目指す」とした。 1975年(昭和50年)8月、三木は軽井沢の別荘でライフサイクル計画の最終的な詰めを行っていた。計画がまとまり次第自民党内に調査会を設けることになっており、調査会長は船田中が内定していた。しかし福田副総理兼経済企画庁長官が、下手をすると日本列島改造論の二の舞になると指摘するなど、自民党、関係省庁のライフサイクル計画に対する目は冷ややかであった。ライフサイクル計画でまず問題とされたのが財源であり、財政難の中で財源の裏づけなくしてこのような計画を遂行するの困難であるという意見が出された。また選挙目当ての人気取り政策であるなどと野党などから批判を受けることを懸念する声も挙がった。そしてライフサイクル計画が、三木が自らのブレーンである学者グループに起草させたものであることは官僚機構からの反発を招いた。三木は8月12日の記者会見でこれらの批判に対し、選挙目当ての人気取り政策ではなく、長期的に検討を重ねた上で将来的には一大政策として実行していこうと構想をしているもので、まずは財政負担の無い定年延長あたりから取り組んで行きたいと説明した。 1975年(昭和50年)9月9日、中央政策研究所は三木にライフサイクル計画を提出した。9月18日には官房副長官を長とした生涯設計計画検討連絡会議が発足し、翌19日に第一回会合が開かれた。しかしその後の動きは鈍く、第二回会合は翌1976年(昭和51年)4月8日まで開かれなかった。それでも第二回の会合で社会保障、生涯教育、住宅、労働の4分科会が設置され、各テーマについて検討が進められた。ライフサイクル計画は1977年度(昭和52年度)からの計画具体化を目指したが、既存制度との整合性をどう取るのか、年金などの社会保障制度に対する国民負担について国民的合意は取り付けられるのかなど、提言の実行に向けて多くの問題が浮上した。そしてライフサイクル計画の発表は政局の重大局面と重なったこともあって、自民党内でも計画そのものに対する意思統一を行うことも困難であり、また三木のブレーンである学者グループの作成したライフサイクル計画に対する官僚の反発も根強く、結局ライフサイクル計画は目立った成果を挙げることなく、三木の退陣とともに忘れ去られることになった。 ライフサイクル計画は高齢化社会が始まり、高度経済成長からの転換期を迎えていた当時の日本において、欧米追随型ではない新しい日本の産業社会の成立を理想とし、日本の福祉政策の将来像を提示していた。その中には定年の延長、労働慣行の見直し、公的年金制度、保健医療などといった、その後も日本社会で大きな問題となる課題に対する貴重な提言も含まれていた。しかし積極的な福祉拡大派からは自助を重視しすぎた結果、公的な支援の枠組みが貧弱であり、また身体障害者など正常なライフサイクルに乗れない人たちへの配慮に欠けるとの批判を受け、福祉拡大に対して消極派からは逆に、ライフサイクル計画は社会主義に通じ、勤労、自助の意欲を奪い、また財政負担を増大させるとの批判がなされた。結局ライフサイクル計画は具体的な成果を挙げることはできなかったが、計画の中で唱えられていた日本型福祉の考え方は、1980年代以降の行政改革に受け継がれていったとする意見もある。
※この「ライフサイクル計画」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「ライフサイクル計画」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。
- ライフサイクル計画のページへのリンク