男は一度勝負する
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1964年(昭和39年)に成立した佐藤政権下で、三木は通産大臣、外務大臣という主要閣僚を務め、政権を支えていた。1966年(昭和41年)には、赤城宗徳ら佐藤に批判的な議員たちによって粛党推進協議会が結成され、翌年には粛党推進協議会が発展して新政策懇話会が結成された。そのような中、1967年(昭和42年)からは佐藤が三選に出馬するかどうかが話題となり始め、佐藤以外に三木、前尾繁三郎、藤山愛一郎らが総裁候補として取り沙汰されるようになった。反佐藤派の新政策懇話会の活動に佐藤も神経を尖らせ、三木に対して新政策懇話会に参加せぬよう注意を与えていた。 当時の三木派内には三木直系グループと親佐藤、福田グループという二つのグループがあった。1964年(昭和39年)の総裁選挙で三木は池田三選を支持していたが、早川崇ら三木派内の親佐藤、福田グループは連判状を作成し、佐藤支持を訴えていた。1964年の総裁選で三木派の分裂は免れたものの、以後三木は難しい派閥運営を強いられるようになっていた。 1968年(昭和43年)の総裁選が迫る中、三木派内には総裁選出馬を巡り二つの考え方が表明されるようになった。まずは佐藤と対決してでも出馬すべきとの考え方である。新政策懇話会に参加していた議員や若手議員、親佐藤、福田グループの中心メンバーであった早川らも、三木は佐藤に対抗して総裁選に出馬すべきと主張した。一方、佐藤との協調関係を重視し、佐藤退陣後の政権禅譲を狙うべきとの意見もあった。実際問題三木派の実力から見て佐藤派など佐藤政権の主流派の協力無くして政権獲得は困難であり、佐藤との協調が政権獲得に不可欠と主張したのである。 1968年(昭和43年)7月に実施された第8回参議院議員通常選挙の結果、自民党はほぼ改選前の議席を維持した。佐藤や佐藤を支える主流派は3選に自信を深めていた。このような中、三木は9月初めの派閥研修会で、海部俊樹、丹羽兵助ら若手議員からの総裁選出馬を求める声に対しても、外務大臣としてのスケジュールが全て終わった段階で考えるとの慎重な態度を貫いた。 三木は佐藤からの禅譲を期待していた。かねてから三木は佐藤より政権の禅譲を匂わされており、佐藤派を始めとする主流派の協力無くして政権の獲得が困難であった三木は、まずは佐藤からの政権禅譲を期待していた。当時佐藤派からは木村俊夫官房長官や橋本登美三郎総務会長が三木の出馬取り止めを働きかけていたが、一方田中角栄は世代交代への期待から三木の出馬を陰で歓迎していた。いずれにしても三木は佐藤からの政権禅譲確約を得ることは出来ず、結局総裁選出馬に踏み切ることになった。 1968年(昭和43年)10月29日、三木は総裁選出馬のため外務大臣の辞表を提出し、翌30日には「男は一度勝負する」と、正式に立候補を表明する。総裁選立候補を決意した三木に石橋湛山が後見人役となった。三木は立候補表明に当たって所信を表明した。三木の所信は日米安保条約の堅持と自動更新を支持するなど、これまでの佐藤政権の政策と大きくは異ならなかったが、住宅問題に対応する住宅省設置を唱えるなど、後の三木内閣で打ち出されることになるライフサイクル計画に繋がる施策も見受けられた。三木に続いて11月1日には前尾、11月8日には現職の佐藤が出馬を表明し、総裁選が始まることになった。 三木が総裁選出馬を決断した背景としては、まず三木直系グループと親佐藤、福田グループの2グループが存在した三木派内の事情から、佐藤からの禅譲が無い中では、総裁選出馬の見送りは派閥の分裂など派の結束力低下に直結しかねないと判断したものと考えられる。また1964年(昭和39年)、幹事長として池田から佐藤への政権移譲に係わった三木は、佐藤に対して後継者の育成、政権に執着しないことを要求し、佐藤も三木の意見に応じていたが、三木から見て佐藤は政権に執着し続けており、三木は最初の約束と違うと人心一新を訴え総裁選出馬を決意した。 総裁選は三木、前尾、佐藤以外に佐藤批判派の急先鋒であった藤山愛一郎も出馬を模索していた。藤山は自らも出馬することによって佐藤批判票を増やし、第一回投票で佐藤の過半数獲得を阻止し、決選投票での逆転をもくろんだのである。しかし藤山派内も出馬でまとめあげることに失敗したため、藤山は出馬断念に追い込まれた。総裁選出馬を断念した藤山は、反佐藤勢力を結集した人心一新推進本部の本部長に就任し、佐藤の三選阻止と三木、前尾に対する支持を訴えた。人心一新推進本部の結成後、三木と前尾の決選投票での二、三位連合が成立した。 11月18日、三木は大阪で総理総裁となった際の具体的な政策について講演した。その中で三木は沖縄返還に際して、核抜き本土並みの返還を目指すべきとした。この三木の発言は佐藤をいたく刺激し、沖縄返還を最初から本土並みとすることは困難であり、沖縄住民が本土並み返還を望んでいるというのは認識不足であり、このような認識の異なる人物を外務大臣としたのは自らの不明であったと発言した。この佐藤の発言は大きな反響を呼び、争点が必ずしもはっきりしなかった総裁選でようやく争点らしい争点が現れることになったが、総裁選投票日が迫っている中、選挙の動向を左右するまでには至らなかった。 11月27日に行われた総裁選で、佐藤は過半数を上回る249票を集め、第一回投票で総裁三選を果たした。三木は107票、前尾は95票であった。三木は事前の予想では最下位となるものと見られていたが、前尾を押さえ2位に滑りこんだ。敗れたとはいえ善戦を見せた三木は総裁候補の一角としての地位を保った。一方、3位に終わった前尾は派内での求心力が低下し、大平正芳が新たな総裁候補として浮上するきっかけとなった。また佐藤体制を固めていた福田赳夫、田中角栄も力をつけつつあり、佐藤時代の後に続くいわゆる三角大福時代が近づいていた。
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