首相就任前
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言葉は悪いが、たんつぼだ 自由民主党全国組織委員長時代の1988年4月3日、京都市でのパーティーで「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」と発言した。夫人の千恵子は「たとえが適切じゃないですよ」とたしなめたという。その後、大阪選出の国会議員に囲まれた際も、この話題に触れず、逆に大阪選出の国会議員Nらの方から「もういい」といった発言があったという。 過渡的内閣には限界がある 1995年5月10日、自民党幹事長時代、内閣総理大臣公邸での話として「村山首相は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言した。この発言に飛びついた読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。これにより、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受ける。それにともない、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。森によれば、「いつも言うように、マスコミは片言隻句だけをとらえて報道してるんだ。あのときも僕はそんな風に言っていない。(中略)「大変つらい、大変な仕事だと総理は言っている」と言っただけで、別に「辞めたい」と具体的に言ったわけじゃあない」と言う。なお、1995年7月23日の参議院選挙の晩に連立政権が議席減となったことが判明すると、村山は党首会談で河野に首相交代を提案する騒ぎがあった。 当時この発言を報じた新聞は皆無であり、各社のデータベース、G-search等にも一切収録されず、新聞各紙が首相時代に過去の発言を問題視した際にも取り上げていない。当時報じられていたのはナホトカ号重油流出事故発生直後の1月10日に運輸省を訪れて「第八、第九管区の海上保安本部の所管範囲の境界が石川、福井県境にあるため、海上の重油処理が円滑に進められていないのではないか」と広域的な処理活動を要請したこと や、1月23日に首相の橋本等と共に日本海産の魚介類のイメージ回復のため、報道陣の前で蟹を食べて見せたことであり、菅直人がカイワレを食したひそみに倣ったものだとされた。また、文部大臣の時分からボランティアを評価するよう提言していた 森は後日、首相時代に阪神大震災のボランティアと共に重油回収に当たったボランティアを第149回国会の所信表明演説で引用したほか、官邸ウェブサイトにても「阪神・淡路大震災やナホトカ号重油流出事故のときに全国から若者たちが集まってきたのは、あれは何も教育がよかったからとか教育が悪かったからじゃないはずです。献身的にボランティア活動をしていた姿というのは、これはさすが日本の若者だと私は大変感動しました。そういう子どもたちは、本来そういうすばらしいものを持っているんですよ。それをどう引き出してあげるかということだったと思うんです。」と賞賛している。 エイズが来たように思われて 2000年1月13日、福井県敦賀市で行われた講演において「初めて選挙に出たときは泡沫候補だった。選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」と発言し、民主党などから批判された。民主党は2001年の国連エイズ総会へ森が派遣された時にも批判した。エイズ自体については森は以前から関心を持っており、沖縄サミットではマラリア、結核などとともに例年になく大きく扱われ、撲滅対策に総額30億ドルの協力を約束している。また、国連ミレニアムサミットで「アフリカ問題の解決なくして21世紀の平和と安定はない」と演説し、森は対アフリカ外交を活発に推進していったが、その主軸に据えられているのはエイズ(およびその一因である衛生教育の不備)対策であった。森の提唱で世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)を呼びかけ、ジェノバ・サミットで実現もしている。
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