首相就任と死去
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「スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯爵)」の記事における「首相就任と死去」の解説
「カートレット内閣」も参照 1737年にシャーロット王妃が死去した後、ウィルミントン伯爵は再び首相就任への野望を燃やした。例えば、1739年に対スペイン戦争をめぐって内閣が分裂したとき、ウィルミントンは国王の意見に同調して開戦を強く支持し、1741年2月に第2代カートレット男爵ジョン・カートレット(後の第2代グランヴィル伯爵)がウォルポールの不信任決議案を提出したときは閣僚にもかかわらず反対票を投じなかった。1742年1月25日にはドディントンがウィルミントン伯爵に手紙を書き、14年前のジョージ2世即位にあたり、ウィルミントンが慎重すぎて国を誤った(ウォルポールに政権を譲った)と述べた後、ウィルミントンにウォルポール政権を転覆するよう求めた。 そして、1741年イギリス総選挙に敗れて求心力を落としたウォルポールは、1742年2月に辞職した。その後任としてウィルミントン伯爵が第一大蔵卿(首相)に任じられたが、既に健康を害しており、当時名望のあったカートレット男爵が内閣の実質的指導者となった。 ウィルミントン伯爵内閣の最初の問題はウォルポール前首相の不正行為を議会で追及するか否かだった。同内閣には、カートレットやウィリアム・パルトニー(後の初代バース伯爵(英語版))など反ウォルポール派が入閣していたが、初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリスやヘンリー・ペラム兄弟らウォルポール旧政権からの閣僚も参加していたため、結局ウォルポールに対する責任追及の機運は高まらなかった。 ウォルポール政権末期に発生したオーストリア継承戦争をめぐって国王ジョージ2世とカートレットはハノーファーを重視し、1743年にも軍の直接指揮をとるべく大陸に渡っていったが、ウィルミントン伯爵は二人の不在の間の1743年7月2日に首相在職のままロンドンのセント・ジェームズ・スクエア(英語版)で死去した。首相在職期間は約1年半ほど、重要な政策に取り組むこともなく死去した。 死後、コンプトン・ウィンエッツで埋葬された。結婚しておらず、子供もいなかったのでウィルミントン伯爵位は彼の死とともに廃絶した。遺産は甥で兄ジョージの息子第5代ノーサンプトン伯爵ジェームズ・コンプトンが継承した。また、庶出の娘をもうけ、その娘がサウスカロライナ植民地総督ジェームズ・グレン(英語版)と結婚したとする文献もある。 後任の第一大蔵卿(首相)にはヘンリー・ペラムが就任した。ペラムは帰国したカートレットとの権力闘争に勝利してその地位を固めることになる。 ウィルミントン伯爵の名誉を称えて、1730年9月25日にマサチューセッツ湾直轄植民地で成立した町にウィルミントンがつけられたほか、1739年にノースカロライナ植民地の都市にウィルミントンの名前がつけられ、同年頃にデラウェア植民地でもウィリンタウン(Willingtown)という都市がウィルミントンに改名された。1751年にはニューハンプシャー植民地総督ベニング・ウェントワースの許可を受けて、同じくウィルミントン伯爵を記念するウィルミントン(英語版)の町(現バーモント州領)が成立した。
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首相就任と死去
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「ジョージ・カニング」の記事における「首相就任と死去」の解説
1827年4月10日に国王ジョージ4世から組閣の大命を受けて首相に就任した。しかしトーリー党内からは「カトリック派内閣」として評判が悪く、ピール、ウェリントン公爵、バサースト伯爵、ウェストモーランド伯爵ら党有力者のほとんどが敵に回った内閣となった。カニング派議員30名とトーリー党穏健派だけでは議会多数を確保できなかったため、結局カニングは野党ホイッグ党の中の穏健派(ランズダウン侯爵派)と連立して政権運営するしかなかった。また、5月に王位の推定相続人クラレンス公ウィリアム・ヘンリーをロード・ハイ・アドミラル(英語版)に任命しており、王位継承がおきた場合でも政権交代がおきないよう手を打った。首相就任に伴う補欠選挙ではニューポート選挙区から出馬せず、代わりにシーフォード選挙区(英語版)の補欠選挙で当選したが、これはニューポート選挙区では当選が確実ではないためとされた。 組閣はなんとか成功したものの、5月31日に急進派のジョセフ・ヒューム(英語版)による冒涜的・煽動的文書誹謗罪法(Blasphemous and Seditious Libels Act)の廃止法案が採決にかけられるなど議会運営は苦しいままだった。また、カニングは3月1日に小麦の国内価格が1クォート60シリングに達した場合に輸入を許可し、輸入関税を引き下げる穀物法改正法案を提出し、法案は庶民院で大差で可決されたが、貴族院ではウェリントン公爵が6月1日に「保税貨物の場合は小麦の価格が66ポンド以上でなければ輸入を禁ずる」という改正案を可決させたため、結局撤回に追い込まれた。 1月のヨーク=オールバニ公爵フレデリックの葬儀で風邪をひいた上、組閣での心労がたたり、7月2日にようやく庶民院の閉会を迎えた後、第6代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(英語版)の申し出を受けて西ロンドンのチジック・ハウスで休養したが、快復することはなく、7月29日に一度ジョージ4世に謁見するものの、8月1日には重病になり、5日には病状が公表された。そして、8日の午前3時50分にチジック・ハウスで病死した。後任の首相には国王の人選によりカニング内閣陸相ゴドリッチ子爵フレデリック・ロビンソンが就任している。
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