首相就任とマニトバ学校法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 07:09 UTC 版)
「ウィルフリッド・ローリエ」の記事における「首相就任とマニトバ学校法」の解説
ジョン・A・マクドナルドの死後、保守党が苦境に陥る一方で自由党をうまく掌中に収め、1893年オタワで真の国家構築と新しい綱領承認に重点を置いた政治大会を開いた。これは多くの人々を惹きつけた。1896年の選挙ではマニトバ州のカトリック少数派の教育が争点となるも、ローリエはイソップの『北風と太陽』をもじった「太陽の方法」という表現を使い、どっちつかずの態度を取った。結果自由党は1896年の選挙で勝利し、これによってローリエは連邦首相に就任した。 1896年のローリエと、マニトバ州首相のトーマス・グリーンウェイ(英語版)の会談で、ローリエはマニトバのカトリック少数派の教育の今後について決定した。1890年まで続いていたセパレート・スクールを廃止した後は、授業のある日の放課後30分間以内に限り、英語以外の言語で宗教教育をさせることにした。これは巧妙な妥協案だったが、英・仏二言語主義に基づくマニトバ法の精神に則っているとは言い難かった。
※この「首相就任とマニトバ学校法」の解説は、「ウィルフリッド・ローリエ」の解説の一部です。
「首相就任とマニトバ学校法」を含む「ウィルフリッド・ローリエ」の記事については、「ウィルフリッド・ローリエ」の概要を参照ください。
- 首相就任とマニトバ学校法のページへのリンク