首相就任までの経緯 (1827年-1828年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「首相就任までの経緯 (1827年-1828年)」の解説
トーリー党守旧派から協力を拒否されたカニングはホイッグ党のランズダウン侯爵派と連立を組んで組閣した。これによりトーリー党、ホイッグ党双方が党分裂状態になった。 しかしカニングは首相就任4カ月にして病死。国王ジョージ4世はこの時にはウェリントン公爵を召集することなく、ゴドリッチ子爵に大命を与えている。ウェリントン公爵はゴドリッチ子爵内閣にも入閣しなかったが、軍職の陸軍総司令官職への復帰は了承している。 国王はカトリック解放派やホイッグ党から閣僚を入れ過ぎることに反対する立場だったので、内閣のお目付役としてトーリー党守旧派のジョン・チャールズ・ヘリス(英語版)を蔵相として入閣させていた。そのためゴドリッチ子爵内閣はすぐにも閣内不一致となった。国王とゴドリッチ子爵の対立も深まり、1828年1月8日には内閣総辞職に追い込まれた。 1月9日に国王はウェリントン公爵を召集して組閣の大命を下した。ウェリントン公爵は即答せず、各方面との組閣交渉の時間を頂いて退下した。 ウェリントン公爵はまずカニング内閣に参加していたホイッグ党ランズダウン侯爵派に入閣を要請したが、彼らはウェリントン公爵の反カトリック解放の立場に反発して入閣を拒否した。つづいてハスキソン率いるカニング派(トーリー党内自由主義派・カトリック解放派)に協力を要請したが、彼らはカトリック解放問題を棚上げにするという条件で入閣を了承した。これによって組閣の見通しが立った。
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