退下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 07:28 UTC 版)
斎宮が任を終えることを、奈良時代から平安時代中期まで(8〜10世紀頃)は退出と称したが、その後は退下(たいげ)または下座と言った。 斎宮の退下は通常、天皇の崩御或いは譲位の際とされるが、それ以外にも斎宮の父母や近親の死去による忌喪、潔斎中の密通などの不祥事、また斎宮の薨去による退下もあり、初斎院や野宮での潔斎中に退下した斎宮も多い。なお、伊勢での在任中に薨去した場合は現地に葬られたらしい(伊勢で薨去した斎宮として確実なのは平安時代の隆子女王と惇子内親王の2人で、いずれも斎宮跡近くに墓所と伝わる御陵が残る)。退下の後、前斎宮は数ヶ月の間、伊勢で待機し準備が整った後に、奉迎使に伴われて帰京した。 帰京の道程は二通りあり、天皇譲位の時は群行の往路と同じ鈴鹿峠・近江路を辿るが、その他の凶事(天皇崩御、近親者の喪など)の場合には伊賀・大和路(一志郡、川口、阿保、相楽)を経て帰還するのが通例であった。どちらの行程も最後は船で淀川を下り、難波津で禊の後に河陽宮を経て入京した。 また、酢香手姫皇女以前の斎宮は酢香手姫皇女が任を終えて葛城に移ったと記されるのみで、稚足姫皇女を除くと他の斎宮のその後は不明。単なる記載漏れか、当然帰るべき所(例えば宮廷の周囲)があったので省略されたか、それとも、酢香手姫皇女の移転先である「葛城」の記載が他の斎宮の移転先をも代表しているとみるか、様々に推測できる。
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