斎院制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 07:41 UTC 版)
伊勢神宮の斎王(斎宮)に倣い、歴代の斎王は内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入する。この御所は地名により紫野斎院、あるいは単に紫野院とも呼ばれた。 (角田文衞説では、現在の京都市上京区櫟谷七野神社のあたりに相当するという)斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に奉仕した。 特に重要なのは四月酉の日の賀茂祭で、斎王はあらかじめ御禊の後上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行った。この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、清少納言が『枕草子』で祭見物の様子を書き留めており、また紫式部も『源氏物語』「葵」の巻で名高い車争いの舞台として描いている。 伊勢斎宮・賀茂斎院の二つの斎王制度が両立していた間、都に近い斎院の方が遠い伊勢の斎宮よりも重んじられていたようで、歴代斎院は斎宮に比べて女王が少なく、また生母の出自も高い例が多い。一方で斎院は天皇の代替わりがあっても退下しないことがしばしばあり、2朝以上任にあった斎院も少なくなかった。中でも、歴代最長の選子内親王は実に5朝(円融朝から後一条朝まで)56年間の長きに渡って斎院をつとめたことから“大斎院”と称された。なお、退下の後は斎宮同様殆どの斎院が生涯を独身で終えたが、天皇や貴族と結婚した斎院も少数ながらおり、院政期には数名の女院も出ている。
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