後一条朝とは? わかりやすく解説

後一条朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:31 UTC 版)

藤原行成」の記事における「後一条朝」の解説

長和4年1015年12月三条天皇譲位意向示し、翌長和5年1016年正月には道長外孫である後一条天皇への譲位即位式に関する諸事定めたが、行成藤原斉信藤原公任らほかの四納言とともに自ら筆を執って式の作成過去の記録抄出行い道長感動させている。長和6年1017年道長摂政左大臣辞し長男藤原頼通摂政となるが、これ以降行成頼通側近的な立場となったとみられる長和6年1017年皇太子であった三条天皇皇子敦明親王皇太子辞退するが、行成はこの報を受けて顔相に詳しくない前置きしながら、敦明親王について「無龍顔」(天皇の相ではなかった)と感想残している。また、寛仁2年1018年)には行成が家別当として仕えた敦康親王没した寛仁3年1019年4月刀伊の入寇発生女真族九州北部侵入するが、大宰権帥藤原隆家指揮従った大宰府管内武士によって撃退された。6月末に公卿定にて武功者に対す褒賞審議されたが、以下のやりとりがあった。実資の意見藤原斉信賛同しその後公任・行成同意した藤原行成藤原公任勅符褒賞のことを載せているが、武功立てたのは勅符到着以前のため、賞を与えるべきでない藤原実資寛平6年894年対馬侵入した新羅人撃退した文室善友に対して褒賞約束がなくても賞を与えた前例がある。今回のような大きな被害もたらした大事件に対して褒賞なければ今後勇戦する者が現れなくなってしまう。 この事案は、支配層である宮廷貴族形式主義地方現実対す認識不足典型例とされることが多い。これに対して当時地方における豪族勢力伸長進行しており、豪族達は朝廷軍隊としての役割担いつつも、反乱朝廷意図せぬ他国との交戦など、暴発する可能性が常に存在していた。この状況にあって朝廷伝統的権威によって辛うじて豪族達を制御していたため、権威象徴である勅符重要視したことはやむを得ないとする意見もある。 同年12月に隆家の後任として行成大宰権帥兼ねるが、これは婿である藤原長家道長の六男)の世話をする費用不足していたことから、行成実入りの多い当官職望んだものとされる。しかし、行成九州赴任しないまま、翌寛仁4年1020年権大納言昇進して権帥の任を去っている(後任源経房)。この経緯については、娘である長家室の病弱配していたことや、行成自身公事に欠くことができない人材であったことから、行成下向叶わないうちに、権大納言昇任引き替え権帥返上させられたものとみられるさらには大宰府における現地での任務行成のような上級貴族にはかなり厳しく似つかわしくない筈で、行成公私の事にかまけて赴任延ばし伸ばしにしているように見え権帥返上行成にとって積極的に辞意示した結果ではないが、必ずしも不本意なことではなかったとする意見もある。結局治安元年1021年長家室は病没してしまうが、娘を失って激しく憔悴悲嘆に暮れる行成様子が『栄花物語』や『権記』から窺われる治安2年1022年行成の子息・藤原実経国守務めていた但馬国において、同国にあった小一条院所有荘園荘官であった惟朝法師に対して国衙官人殺害したという容疑で、国府朝廷訴え起こす。一旦、惟朝に対す追捕宣旨発給されるが、殺害されとされる人物実際に生存していたらしく、翌治安3年1023年正月小一条院からこの訴え虚偽であるとして差し止め請求なされると、朝廷直ち方針変更し訴え起こした但馬国郡司らに出頭命じる。4月になって7名の郡司上京し当初行成郡司らに自らの邸宅宿所として与えていたが、まもなく検非違使左衛門志・粟田豊道によって郡司らは捕縛連行されてしまい、行成・実経親子大い面目失ってしまったという。検非違使庁での勘問において郡司らはなおも殺害事実であると証言するが、これを聞いた行成は夜も寝られぬ程心痛し、実経の処罰覚悟の上道長事実告げたい意向右大臣藤原実資伝え、実資もこれを強く勧めたという。結局後一条天皇勅裁により手続き瑕疵があるとして訴え無効とされ、惟朝は特別に赦免される一方で郡司らは保釈され帰国、実経も釐務職務停止処せられるが1ヶ月解除されている。 万寿2年1025年藤原長家後室藤原斉信の娘)が没すると、行成は再び長家を婿に望む。しかし、右大臣藤原実資長家を婿に望み道長は実資娘との結婚賛成したため、行成希望受け入れられなかった。 万寿4年1027年正月より行成体調崩し公事には参加したものの左手不調乗馬に堪えないことを訴えている。さらに4月賀茂祭上卿務め予定にも関わらず3月禁忌触れ恐れをおして灸治を行うなど、行成体調下り坂に向かう。そして、12月1日隠所に向かう途中で突然倒れその後会話飲食ともできないまま、4日薨去した。享年56最終官位権大納言正二位按察使。なお、道長は寅刻(午前3時-5時頃)、行成は亥刻(午後9時-11時頃)と同日没したが、世間道長の死で大騒ぎとなっており、行成死については気に留めるものがほとんどいなかったとされる7日に父道長の死を上奏ようとした関白藤原頼通は、行成死去上奏するように進言した大外記清原頼隆を勘当している。頼隆の勘事9日後に解除されたが、頼隆は自らの正当性人々訴えとともに参議藤原広業讒言頼通の対応に繋がったとしている。なお、私的な感情流されて勘当処分下した批判されるのを恐れた頼通は、処分下したことすらとぼけたという。

※この「後一条朝」の解説は、「藤原行成」の解説の一部です。
「後一条朝」を含む「藤原行成」の記事については、「藤原行成」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「後一条朝」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「後一条朝」の関連用語

後一条朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



後一条朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの藤原行成 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS