後一条朝
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長和4年(1015年)12月に三条天皇が譲位の意向を示し、翌長和5年(1016年)正月には道長の外孫である後一条天皇への譲位や即位式に関する諸事を定めたが、行成は藤原斉信や藤原公任らほかの四納言らとともに自ら筆を執って式の作成や過去の記録の抄出を行い、道長を感動させている。長和6年(1017年)道長が摂政左大臣を辞し、長男の藤原頼通が摂政となるが、これ以降の行成は頼通の側近的な立場となったとみられる。 長和6年(1017年)皇太子であった三条天皇皇子の敦明親王が皇太子を辞退するが、行成はこの報を受けて顔相に詳しくないと前置きしながら、敦明親王について「無龍顔」(天皇の相ではなかった)と感想を残している。また、寛仁2年(1018年)には行成が家別当として仕えた敦康親王が没した。 寛仁3年(1019年)4月に刀伊の入寇が発生、女真族が九州北部に侵入するが、大宰権帥・藤原隆家の指揮に従った大宰府管内の武士によって撃退された。6月末に公卿定にて武功者に対する褒賞が審議されたが、以下のやりとりがあった。実資の意見に藤原斉信が賛同し、その後公任・行成も同意した。 藤原行成・藤原公任:勅符に褒賞のことを載せているが、武功を立てたのは勅符到着以前のため、賞を与えるべきでない。 藤原実資:寛平6年(894年)対馬に侵入した新羅人を撃退した文室善友に対して、褒賞の約束がなくても賞を与えた前例がある。今回のような大きな被害をもたらした大事件に対して褒賞しなければ、今後勇戦する者が現れなくなってしまう。 この事案は、支配層である宮廷貴族の形式主義や地方の現実に対する認識不足の典型例とされることが多い。これに対して、当時地方における豪族の勢力伸長が進行しており、豪族達は朝廷の軍隊としての役割を担いつつも、反乱や朝廷の意図せぬ他国との交戦など、暴発する可能性が常に存在していた。この状況にあって、朝廷は伝統的権威によって辛うじて豪族達を制御していたため、権威の象徴である勅符を重要視したことはやむを得ないとする意見もある。 同年12月に隆家の後任として行成が大宰権帥を兼ねるが、これは婿である藤原長家(道長の六男)の世話をする費用が不足していたことから、行成が実入りの多い当官職を望んだものとされる。しかし、行成は九州へ赴任しないまま、翌寛仁4年(1020年)権大納言に昇進して権帥の任を去っている(後任は源経房)。この経緯については、娘である長家室の病弱を配していたことや、行成自身が公事に欠くことができない人材であったことから、行成の下向が叶わないうちに、権大納言昇任と引き替えに権帥を返上させられたものとみられる。さらには、大宰府における現地での任務は行成のような上級貴族にはかなり厳しく似つかわしくない筈で、行成が公私の事にかまけて赴任を延ばし伸ばしにしているように見え、権帥返上は行成にとって積極的に辞意を示した結果ではないが、必ずしも不本意なことではなかったとする意見もある。結局、治安元年(1021年)長家室は病没してしまうが、娘を失って激しく憔悴し悲嘆に暮れる行成の様子が『栄花物語』や『権記』から窺われる。 治安2年(1022年)行成の子息・藤原実経が国守を務めていた但馬国において、同国にあった小一条院所有の荘園の荘官であった惟朝法師に対して国衙の官人を殺害したという容疑で、国府が朝廷に訴えを起こす。一旦、惟朝に対する追捕の宣旨が発給されるが、殺害されたとされる人物は実際には生存していたらしく、翌治安3年(1023年)正月に小一条院からこの訴えは虚偽であるとして差し止めの請求がなされると、朝廷は直ちに方針を変更し、訴えを起こした但馬国の郡司らに出頭を命じる。4月になって7名の郡司が上京し、当初行成は郡司らに自らの邸宅に宿所として与えていたが、まもなく検非違使左衛門志・粟田豊道によって郡司らは捕縛・連行されてしまい、行成・実経親子は大いに面目を失ってしまったという。検非違使庁での勘問において郡司らはなおも殺害は事実であると証言するが、これを聞いた行成は夜も寝られぬ程心痛し、実経の処罰も覚悟の上で道長に事実を告げたい意向を右大臣・藤原実資に伝え、実資もこれを強く勧めたという。結局、後一条天皇の勅裁により手続きに瑕疵があるとして訴えは無効とされ、惟朝は特別に赦免される。一方で、郡司らは保釈されて帰国、実経も釐務(職務)停止に処せられるが1ヶ月で解除されている。 万寿2年(1025年)藤原長家の後室(藤原斉信の娘)が没すると、行成は再び長家を婿に望む。しかし、右大臣・藤原実資も長家を婿に望み、道長は実資娘との結婚に賛成したため、行成の希望は受け入れられなかった。 万寿4年(1027年)正月より行成は体調を崩し、公事には参加したものの左手の不調や乗馬に堪えないことを訴えている。さらに4月の賀茂祭に上卿を務める予定にも関わらず、3月に禁忌に触れる恐れをおして灸治を行うなど、行成の体調は下り坂に向かう。そして、12月1日に隠所に向かう途中で突然倒れ、その後は会話・飲食ともできないまま、4日に薨去した。享年56。最終官位は権大納言守正二位兼按察使。なお、道長は寅刻(午前3時-5時頃)、行成は亥刻(午後9時-11時頃)と同日に没したが、世間は道長の死で大騒ぎとなっており、行成の死については気に留めるものがほとんどいなかったとされる。7日に父道長の死を上奏しようとした関白・藤原頼通は、行成の死去も上奏するように進言した大外記・清原頼隆を勘当している。頼隆の勘事は9日後に解除されたが、頼隆は自らの正当性を人々に訴えるとともに、参議・藤原広業の讒言が頼通の対応に繋がったとしている。なお、私的な感情に流されて勘当の処分を下したと批判されるのを恐れた頼通は、処分を下したことすらとぼけたという。
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