後三年の役 参戦の伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/21 02:31 UTC 版)
弘行は、永保3年(1083年)9月に起きた後三年の役に参戦していたとされ、伝承では、源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡、清原武衡軍と戦ったとされる。後に後白河上皇の命で作成された『奥州後三年合戦絵巻』には、大将軍八幡太郎義家と共に赤烏帽子姿で座した副将軍児玉有太夫弘行朝臣の姿が描かれていたとされるが、後の武蔵武者などの謀により別人の名に書き替えられてしまったと言う伝聞が残る(『奥州後三年記』の方も参照)。有は有道氏の意味であり、正式には、有道児玉大夫弘行となる。この事からも11世紀末に活躍していた人物である事が分かる。 伝承では、後三年の役において軍功を上げたとして、源頼義から団扇を賜ったとされる。これが後に児玉党の軍旗に描かれた唐団扇の由来であり、家紋が軍配団扇紋となった由来とされる(伝承上であり、弘行が参戦していた確証はない)。 『小代行平置文』によれば、奥州征伐後に弘行と弟の有三別当太夫経行(有道児玉経行)は児玉郡を屋敷として居住する様に命じられ、弘行は児玉・入西の両郡の他、久下、村岡、忍などを領有したとされる。 後三年の役後の活動としては、伝承として、源義家に従わない多胡氏の討伐を命じられ、自分の代官として弟経行を派遣し、多胡氏を討ち滅ぼしたとされる。こうした伝承からも源氏と児玉(遠峰)氏の密接な関係がうかがえる。
※この「後三年の役 参戦の伝承」の解説は、「児玉弘行」の解説の一部です。
「後三年の役 参戦の伝承」を含む「児玉弘行」の記事については、「児玉弘行」の概要を参照ください。
- 後三年の役 参戦の伝承のページへのリンク