後三条天皇の即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:48 UTC 版)
69 後朱雀天皇 親仁親王(70 後冷泉天皇) 尊仁親王(71 後三条天皇) 後朱雀天皇の御世、当時の関白である藤原頼通は、父道長に続いて外戚の地位を得るべく苦心したが徒労に終わり、そうこうしているうちに天皇は病を得て第一皇子で東宮であった親仁親王に譲位する(後冷泉天皇)。その際、新帝の東宮には親仁親王の皇太弟である尊仁親王をあてるよう頼通に告げる。尊仁親王の母は三条天皇の皇女禎子内親王であり、藤原氏を外祖父としない。 藤原氏を外祖父とせず、かつ新帝に皇子が生まれる可能性を考慮すれば、頼通にしてみれば賛成できるはずもなく、あからさまに不服の態度をしめしたという。また、尊仁親王を東宮としたいという天皇の考えを察した頼通が先手を打ち、東宮のことはゆっくりと考えるべきであるとして時間稼ぎに走ろうとしたところ、藤原能信が東宮のことは今すぐ決めるべきだと薦めて実現した。 結局のところ頼通、教通の努力も実を結ぶことがなく、後冷泉天皇は皇子はおろか皇女すら得ることなく病により崩御し、尊仁親王が後三条天皇として即位する。藤原氏を外戚としない天皇は、宇多天皇以来実に170年ぶりになる。尊仁親王が東宮であった期間は23年間であったが、この間壺切は頼通が内裏に留め置いたため、東宮としてのシンボルを持たずに即位した天皇となる。 頼通の言い分では、この剣は藤原氏腹(つまり、藤原氏を外戚とする)の東宮のものであるから、尊仁親王に持たせるつもりはないということである。天皇はならば壺切は不要であると述べ、即位の後にようやく献上された。 この話は大江匡房の『江談抄』に掲載された話で、匡房が後三条天皇のあつい信任を受け重用されたため、この話は信憑性が高いとされてきた。だが、明治24年(1891年)に松浦辰男が『江談抄』は匡房が語った話を聞いた藤原実兼がメモしたものを後日文章として起こしたもの(つまり、大江匡房本人の執筆ではない)で、匡房が語ったとされる元の話は「後三条院」ではなく「故三条院」(すなわち三条天皇あるいはその譲位の詔で立てられた敦明親王)の故事であった可能性(「壷切御剣之事」『史学会雑誌』19号、1891年6月))を指摘しており、実際のところは後三条天皇の逸話であったのかどうかは不明である。
※この「後三条天皇の即位」の解説は、「壺切御剣」の解説の一部です。
「後三条天皇の即位」を含む「壺切御剣」の記事については、「壺切御剣」の概要を参照ください。
- 後三条天皇の即位のページへのリンク