延久の荘園整理令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/12 08:52 UTC 版)
慈円の『愚管抄』によると、藤原頼通の関白在任時に口頭で摂関家領と称する違法荘園が諸国に出現し、そのために国務が滞っているとの報告を後三条天皇が受け、それがきっかけで違法荘園の整理を決めたという。 そこで延久の荘園整理令では、従来の荘園整理令よりも強固に実行するためにそれまで地方諸国の国司達に依存していた職務を全て中央で行うようにした。その審査を行う機関として、延久元年(1069年)に記録荘園券契所が設置された。 延喜の荘園整理令以来の方針として、成立の由来がはっきりとしていて、かつ国務の妨げにならない荘園は整理の対象外とする事とし、更に従来の命令とは違って細かい規制が加えられた。 劣悪な荘田と肥沃な公田を無断で交換してはならない。 荘園の住民が荘園外で耕している公田を荘園に含めてはならない。 国司が経費の財源として寺社等に宛がっている公田を勝手に荘園(無定坪付庄)として扱ってはならない。 また、審査の対象となる荘園を摂関家領や大寺社領にまで拡大した所に特徴がある。その一方で、審査対象の荘園の存続条件として、寛徳の荘園整理令が発布された寛徳2年以前に成立した事を示す書類を有しているとすることで、頼通の整理令を受け継ぐ姿勢を前面に押したて、摂関家の不満をそらす等の配慮を見せている。また、天皇の勅許を受けて発給された太政官符・太政官牒が荘園の公験とみなされ、その存在が荘園整理の判断材料とされた。 『愚管抄』は記録所が頼通にも文書提出を求めた時、「そんなものはないので全て没収しても構わない」と答え、頼通の荘園のみ文書の提出を免除されたという話を伝えているが、実際には頼通の荘園も文書を提出したことや、その審査の過程で上野国土井荘などの規定外の荘園が没収されたことなどが、孫の師通の日記『後二条師通記』や『近衛家所領目録』に記されていて、このことから摂関家の経済基盤がこの荘園整理令で大打撃を受けたことがうかがえる。その一方で、頼通の荘園の中核であった平等院領が後三条天皇の即位直前に駆け込みで得た太政官符・太政官牒が有効な公験とされて整理の対象外となったことで、実際の摂関家の経済基盤への打撃はそれほど大きなものとならず、むしろ「天皇の勅許のもとに太政官符・太政官牒の発給を得て四至が確定された荘園は公認される」という原則が確立されたことで、むしろその後の荘園制の発展につながったとする指摘もある。 一方で、石清水八幡宮や興福寺等の大寺社も書類を提出しており、石清水八幡宮は審査の結果、34箇所の内13箇所が収公されるなど、大寺社勢力にも多大な影響を与えていた。 その一方で後三条天皇は、収公された審査基準外の違法荘園を国衙領に戻すだけでなく、勅旨田の名目で天皇の支配下に置くなど、事実上の天皇領荘園を構築しており、それらは後三条院勅旨田と呼ばれた。 この様に後三条天皇が発布した延久の荘園整理令は、摂関家や大寺社の経済力削減や皇室経済の復興などの成果を上げており、後の荘園整理令に大きな影響を与えた。
※この「延久の荘園整理令」の解説は、「荘園整理令」の解説の一部です。
「延久の荘園整理令」を含む「荘園整理令」の記事については、「荘園整理令」の概要を参照ください。
- 延久の荘園整理令のページへのリンク