延喜の荘園整理令
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荘園の増大は有力貴族や彼らに保護された寺社などに莫大な収入をもたらす一方、国司等による税の徴収が不可能(すなわち公領の減少)となってしまうために国家財政に深刻な打撃を与えていた。また、それらを補うために開発された勅旨田も結果的には農民を駆使して公費や公水を利用するなど、却って社会・経済の混乱要因となった。 その為、荘園の新規設置を取り締まり、違法性のある荘園を停止させることで、公領を回復させて国家財政の再建を目指した。 その嚆矢が、醍醐天皇の延喜2年(902年)3月13日に太政官符として発布された延喜の荘園整理令である。この荘園整理令では、醍醐天皇が即位した寛平9年(897年)以降に開かれた勅旨田の廃止、地方民が権門や寺社に田畑や舎宅を寄進することの禁止、権門や寺社が未開の山野を不法に占拠することの禁止などが挙げられている。また、土地所有者には相伝された公験の保持を義務付けるとともに、本来賦役令によって租税・課役の免除申請の権利を有していた国司が、土地所有者からの立荘の申請を受け付けることとなった。これらの法令は違法な荘園を整理するとともに、国衙による国内の土地への管理権限を強化することとなった。 同時に、成立の由来がはっきりとしていて、かつ国務の妨げにならない荘園は整理の対象外としており、この方針は後の整理令にも受け継がれている。また、この時期に「所領」「領主」などの概念が生み出されたのも、この時期に班田制が崩壊していく中で公験などの正規の文書によって土地所有者とされた者がその土地の用益権を持つことが管理権限を有する国衙によって認められたことの反映であるとみられている。 後の花山天皇の代の永観2年(985年)に発布された永観の荘園整理令は、この延喜の荘園整理令が元となっている。
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