平等院領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:25 UTC 版)
平等院には創建当初から藤原頼通によって寺領が施入されていたが、実質的には平等院の主である頼通の管理下にあった。治暦3年(1067年)10月、頼通は後冷泉天皇が平等院に対して封戸300戸を施入したのを機に、平等院の荘園に不輸の権を認めて欲しいと願い出て、その要望を認めて平等院領9か所に不輸の権を与える太政官符を得て、官使の検分のもと四至牓示を行われ、立券荘号が行われた。翌年3月、後冷泉天皇が病に倒れると、頼通は3月28日には先の9か所の平等院領荘園に対する不入の権の適用を求める申請を行った。頼通は翌29日に改めて9か所の不輸の権・不入の権を認める太政官牒の発給を受けた。そして、4月19日に後冷泉天皇が崩御し、頼通とは疎遠であった後三条天皇が即位して延久元年(1069年)には有名な延久の荘園整理令を出した。摂関家の荘園も整理令の対象とされたが、頼通が先帝・後冷泉天皇の崩御の直前に駆け込みで得た平等院領の太政官符・太政官牒が荘園の公験として有効とされて整理を免れた(延久の荘園整理令は有効な太政官符・太政官牒を持たない荘園を整理対象としていた)。 その9か所の全てについては明らかではないが、山城国紀伊郡芹川荘、摂津国住吉郡杭全荘、同国島下郡平田荘、河内国河内郡玉櫛荘、近江国高島郡子田上荘、同郡河上荘の6か所を含んでいることが知られている。頼通の没後、平等院領は殿下渡領と並んで藤氏長者の支配する所領の中核として位置づけられ、代々の摂関が継承してきた。鎌倉時代後期の嘉元3年(1305年)に作成された『摂籙家渡荘目録』(「九条家文書」)によれば、平等院領は12か国に18か所あったという。
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