延久の善政
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後三条天皇は桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。さらに大江匡房らを重用して一連の改革に乗り出す。1069年(治暦5年/延久元年)には画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置し、1070年(延久2年)には絹布の制、1072年(延久4年)には延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等(『後二条師通記』に記載有り)、摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらし、『古事談』はこれを延久の善政と称えている。一方、摂関家側は頼通・教通兄弟が対立関係にあり、外戚関係もなかったために天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかった。 また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようになる。 1072年(延久4年)、即位後4年にて第一皇子・貞仁親王に譲位して太上天皇となり、院政を開こうと図ったが、翌年には病に倒れ、40歳で崩御した。尚、近年の研究では、天皇の退位は院政の実施を図ったものではなく、病によるものとする説が有力である。後三条天皇の治世は摂関政治から院政へ移行する過渡期となった。
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