日本との交流
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大の親日家として知られる。 社会活動 1995年に阪神・淡路大震災の被災者へ寄付。1996年2月3日に阪神・淡路大震災のチャリティーとして行われた生田神社震災復興節分祭にて「豆まき神事」に参加した。 日本の有名な戦争悲話「かわいそうなぞう」のCDの英語吹き込みを担当した。2008年8月13日発売。「戦争は動物までも不幸にする」というメッセージを社会に向けて発信している。 2011年3月16日の来日コンサート終了後、急遽、観覧しに来ていた日本の芸能人とともに、募金箱を持ちコンサートの観客に募金を募った。日本に着いたのはまさに震災当日で、大渋滞に巻き込まれ、ホテルに到着したのは翌日の午前3時であった。 来日していた海外アーティストが公演を中止し、帰国する中でシンディもスタッフから帰国を促されたが、予定通り公演を行った。公演日に節電を呼びかけていたため、照明は最低限に抑えられた。 2011年3月17日には、CNNからの取材を受け、見聞きした範囲で、日本の現状・窮状を伝え、日本に対する支援や募金などの助力を求め、その訴えは、CNNの番組であるHLNを通じて、現地時間の2011年3月17日に世界へ向け報道された。 翌年の3月3日にも来日し、NHKにて独占インタビューが行われた。インタビューにて「私たちの滞在は一時的なものです。でも日本の人たちは毎日過ごしています。何であれ、出来ることがしたかったのです。」「私が日本に来る理由は『震災を忘れていない』という事と、私が来るたびに思い出して欲しいからなのです。」と語った。 日本人との親交 1989年、日本の番組 夜のヒットスタジオに出演した際にニューヨークの『ミホ』というジャパニーズレストランで働いていたことがあったと話した。いきさつは定職もなくブラブラしていた時にそのレストランを経営している鈴木サクエという日本人女性と出会い、「それじゃ駄目だから自分の店で働きなさい」と誘ってもらったとのこと。鈴木はシンディに限らず、シンディのバンド仲間やまだ活躍していない色んなアーティスト達を助けていた。鈴木は常にシンディに「いつか売れる日が来るから頑張りなさい」と激励をしていたという。この鈴木との出会いがシンディを日本贔屓にさせる切っ掛けとなった。番組では内緒で鈴木を探し出し、シンディの来日とは関係なくたまたま偶然に諸事情で日本に帰ってきていた鈴木とシンディはスタジオで再会を果たした。シンディは感激のあまり歌う前に涙ぐんでしまった。 オノ・ヨーコと親交がある。 1986年、吉田拓郎は安井かずみに「ホイットニー・ヒューストンに会わせてあげるから」と誘われアルバムのレコーディングをニューヨークで行ったが、安井が実際に連れてきたのはシンディだったという逸話がある。 日本語 上述のとおりデビュー前の下積み時代、ニューヨークのジャパニーズレストランでウェイトレスのアルバイトをしていた。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」が初めて覚えた日本語である。 ジャパニーズレストランの寿司職人から日本語を教えてもらい自信がつき、日本に来てステージで話してみたところ、実は教えて貰った日本語は全て赤ちゃん言葉だった事が判明。レコード会社からはダメ出しを受けたが、一時的に流行ったと語った。 そのほか「お父さん・はい・少し」や「おしぼり・寿司・さしみ・水割り」など、レストランで使われる言葉や、「最高!」や「本当ねー!(I think so too)」「おやすみなさい」「頑張って!」などの簡単な日本語も喋り、多少の日本語も理解できる。 日本を訪れて 上記にも記載されているが、来日し、1990年のNHK紅白歌合戦に出演している。 日本にはたびたび「お忍び」で訪れて、旅行をしている。もっぱら移動手段は新幹線で、乗り込むとすぐにビールもしくは日本酒とスルメを買い込んで一杯やりつつ、車窓からの景色を眺めるのが好きだとのことである。 来日公演で阪神タイガースの掛布雅之選手の縦じまのユニフォームを着たことがある。 1995年、『ニュースステーション』に出演した際に、当時社会現象となっていた女子高生の「ルーズソックス」のニュースにコメントを求められ「あのソックスは格好いいし、いいじゃない?!」とスタッフの思惑と正反対のことを言い出し、「あの年頃の少女たちは、自分が何か特別の存在でありたいと願い、同時に一人で突出する勇気はまだない。そんな少女たちが社会においては特別な自分たちであるという主張としてのルーズソックスなのではないだろうか」と続け、コメントの最後に「でも誰が何と言おうとあのソックスは格好いい!」と結んだ。 『ものまね王座決定戦』にご本人として登場。来た理由を「お正月にとても楽しいパーティーをやると聞いて来たの。」と語った。また、明石家さんまが「結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」と冗談を言ったところ「ごめんなさい。結婚してるの。ちょっと遅かったわね。3年前はどうしていたの?」とアドリブを返し、さんまが「結婚してました。」と答えると、通訳なしで理解し、笑っていた。また、さんまがたまたまシンディと体が触れ合い、喜ぶと、さんまを抱き上げて力こぶを作ってみせた。 日本食 日本酒・寿司・刺身・味噌汁・梅干・スルメ・枝豆などが好きである。
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日本との交流
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武王の代から開始された日本との交流は、文王の代には十数回の使節が派遣され、また使節団の規模も大きなものになった。 使節派遣当初は安史の乱に関する情報交換があり、また叛乱により帰国が困難になった遣唐使を渤海経由で帰国させるなどの性格があったが、その性格は次第に政治・軍事的なものから、次第に文化・経済的なものへと変質していった。 また国家としての使節派遣以外に、大興9年(746年)には渤海人及び鉄利人千百余人が日本に赴き民間貿易を計画するなど、日本との関係を重視した外交政策を展開していたと推察される。
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日本との交流
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「マーダブ・クマール・ネパール」の記事における「日本との交流」の解説
首相就任前の2008年8月中旬、来日。18日に国際協力機構(JICA)で上田善久理事と意見交換した。同日日本共産党本部で党国際部長と会談、同日夕方外務省を訪問し、御法川信英大臣政務官を表敬し、意見交換を行っている。 夜は日本ネパール協会主催で都内のレストランで講演した。また19日は日本ネパール友好議員連盟のメンバーと意見交換した。 ネパールのポカラ市と姉妹都市関係にある長野県駒ヶ根市も親善訪問している。
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日本との交流
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「リクリット・ティーラワニット」の記事における「日本との交流」の解説
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日本との交流
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「カリフォルニア大学バークレー校」の記事における「日本との交流」の解説
同校は、1958年に「日本研究センター」を設置し、バークレー日本賞を創設。日本文化の研究を推進してきた。同センターは「米国主要大学付属日本研究センターとしては先駆的存在」と評されており、カリフォルニア大学バークレー校はアメリカ合衆国国内において日本文化の研究が盛んな大学のひとつとなっている。第1回には村上春樹、第2回には宮崎駿、第3回には坂本龍一が受賞している。 2013年にはNHK教育テレビ(Eテレ)において、リチャード・ムラーカリフォルニア大学バークレー校教授による『バークレー白熱教室』(全5回)が放送された。 2012年より、SoftBankグループの孫正義社長がここで学生時代を過ごした関係から、TOMODACHIソフトバンクリーダーシッププログラムが、同校において行われている。
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