日本との交渉窓口としての琉球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「日本との交渉窓口としての琉球」の解説
後述のように、明への朝貢貿易を軸とした中継貿易で繁栄した琉球は、日本、朝鮮、そしてシャムなどの東南アジア諸国とも外交関係を持っていた。 明は琉球に対し、対日外交の仲介役としての役割を期待していて、実際に仲介を命じたこともあった。明と外交関係を結んだ足利義満の没後、後継者の足利義持は外交関係をいったん断絶する。15世紀前半、琉球から日本へ向けての交易船が毎年のように運行されている。これは東南アジア諸国の産物を手に入れるとともに、義持による外交関係の断絶によって、琉球を通して中国製品を入手するルートが活性化したためと考えられる。 1425年、明では宣徳帝が即位し、一方日本側も1429年に足利義教が征夷大将軍となる。日中双方の代替わりという状況下で、1432年、宣徳帝は琉球に使節を送り、改めて日本を招諭しようと試みた。宣徳帝から琉球国王尚巴志に宛てた書状には、琉球は日本と境を接し、交易を行っていて道のりも険しくは無いと聞いている。日本を招諭するための使節と私からの書状を、日本国王の元まで送り届けて欲しいとあった。つまり明は琉球を日本との関係改善の仲介役にしようとしたのである。この時は明の使節が琉球で事件を起こしたために、琉球が日明関係の仲介役を果たすことは無かった。しかし同年、足利義教は遣明船を派遣して日明の外交関係は復活した。 日明の外交関係は足利義教以降も継続したが、1523年、寧波で遣明船を派遣した大内氏と細川氏が争い、明国内での官吏の汚職も絡んで日明が一時断交する事件にまで発展した。これが寧波の乱である。寧波の乱の後始末に琉球は深く関与することになる。まず乱後、無罪とされた日本人の帰国は琉球経由で行われた。そして1432年の時と同様に、1525年、日明関係の修復を願う嘉靖帝は琉球に使節を送り、日明関係の仲介役を依頼した。今度は琉球を経由して嘉靖帝の書状は日本側に伝えられ、1539年には遣明船が派遣された。その際、足利義晴は琉球側に日明関係の仲介に立ったことの礼状を送っている。
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