日本との出会い
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こうして3作の詩集を発表していたヌエットは、第4作目の詩集を出版するための費用を作るため、外国人学生にフランス語を教え始めた。そこで彼は、在仏日本人や留学生を通じて日本文化を知ることとなる。パリを訪れていた与謝野鉄幹・晶子夫妻と知り合い、フランス文学者の内藤濯や山田珠樹とも親しく交流した。1925年教えていた日本大使館員により、静岡高等学校がフランス人教師を1人探していることを知る。彼は出願し、1926年3月に横浜に到着して、永井順の出迎えを受けた。契約は3年間で、学校では一日平均三時間の授業を行い、東京の陸軍士官学校でも週一度の講義を行うようになった。3年後契約が切れるとフランスに戻って詩人としての活動を再開し、第四詩集『水蝋樹の香』を老舗出版社ガルニエから上梓する。
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