サーダート政権からムバーラク政権まで
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「タハリール広場」の記事における「サーダート政権からムバーラク政権まで」の解説
1970年にナーセルは心臓麻痺で死去した。彼の死後、副大統領であったアンワル・アッ=サーダートが大統領を継いだ。1972年、カイロ大学の学生デモ隊がタハリール広場内の小広場を占拠し、イスラエルによるシナイ半島の軍事占領の継続に対するサーダート大統領の対応を非難した。サーダート政権は初めは説得を試みたが、やがて警官隊を動員してこれに参加した多くの学生を逮捕した。 1977年、サーダート政権は門戸開放政策を実施した。国際通貨基金の指導を受けた政権は小麦や米などに対する補助金を削減した。これによってパンの価格が高騰し、「パン暴動」と呼ばれる食料暴動が発生した。この際もタハリール広場で抗議活動が行われたが、軍の監視下による夜間禁止令によって鎮圧された。 1981年10月6日、サーダートは過激なイスラーム主義者によって暗殺され、副大統領であったホスニー・ムバーラクが大統領に就任した。2003年にイラク戦争が発生すると、ムバーラク政権はアメリカ合衆国を支援した。これに反対する人々が数時間にわたってタハリール広場を占拠した。それ以降も何回か小さな抗議運動がタハリール広場で発生した。2004年アテネオリンピックの終了後には、エジプトで久しぶりの金メダルを獲得したレスリングのカラム・イブラーヒームとムバーラクが並ぶ巨大な広告板がタハリール広場などに掲げられた。
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