サーダート政権と中東和平
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「エジプトの歴史」の記事における「サーダート政権と中東和平」の解説
詳細は「アンワル・アッ=サーダート」を参照 ナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダート(サダト)は、政権獲得直後に国内の親ソ連派を追放して主導権を握り、社会主義的経済政策の転換、西側諸国への接近など、ナーセル体制の切り替えを進めた。アラブ民族主義の退潮傾向を受けて、シリアやイエメンが離脱した後も使用され続けていたアラブ連合共和国という国名はエジプト・アラブ共和国と改称された。 サーダートは第三次中東戦争で占領されたシナイ半島の回復を目指し、再びイスラエルとの戦いに向かった。1973年10月、シリア軍と示し合わせてイスラエルに攻撃を開始し、停戦ラインとなっていたスエズ運河を渡河してイスラエル軍に大きな打撃を与えた(第四次中東戦争)。さらに中東各国の支援を取り付けることに成功し、とりわけペルシア湾岸の産油国はイスラエルを支持する国への石油輸出を停止する処置をとったことで各国の経済に大きな影響を与えた(第一次オイルショック)。その後イスラエルの反撃が始まり、エジプト・シリアは劣勢に立たされたが、アメリカ・ソ連の介入によって停戦がなされ、初戦での戦果を軸に政治的には一応の勝利を収めることに成功した。第三次中東戦争以来閉鎖されていたスエズ運河の通航が再び可能となり、その収入は西側諸国からの外資導入とともに、エジプトの経済再建を後押しした。 サーダートの政策は1960年代から1970年代のエジプト及びアラブ諸国の情勢変化に伴い、アラブ全体からよりエジプト単独の利益を指向したものへと変化した。情勢変化とはサウジアラビアの国力増強とシリアのハーフィズ・アル=アサド(在任:1971年-2000年)政権の成立によって、エジプト以外のアラブ諸国の存在感が強まり、エジプトが主導的な役割を果たすことが難しくなっていたことや、アラブ各国の政権が安定しはじめ、アラブ統一のような超国家的な主張が力を持つのが難しくなり、アラブ民族主義がより緩やかな国際協調という形で表出するようになったことなどである。特にエジプトでは、シリアやイラクのような第一次・第二次世界大戦によって枠組みが形成された人工的な国家(これらの諸国ではアラブ民族主義は政権の正統性を高める要素でもあった)と異なり、独立国家としての歴史的一体性が強固であったことが、アラブ民族主義と個別の領域的なナショナリズムとの関係を柔軟なものとした。サーダートはイスラエルとの戦争の負担が大きいことや軍事上の劣勢を理解しており、和平に向けて大きく進路を変更した。 1977年11月、サーダートはイスラエルの国会に出向いて和平を呼び掛けるという行動に出て各国に大きな衝撃を与えた。これを契機として実質的な和平交渉へ向けての準備が進められた。これを受けてアメリカ大統領カーターは1978年に両国の仲介を本格化させ、サーダートとイスラエル大統領メナヘム・ベギンをメリーランド州キャンプ・デーヴィッドに招聘し、和平交渉が行われた。長期にわたる交渉の末、エジプト・イスラエル間の相互承認、戦争状態の終結、シナイ半島の返還、スエズ運河の自由航行などを合意した和平が結ばれた(キャンプ・デーヴィッド合意)。この和平は中東の政治地図に決定的な影響を与えた。西側諸国はエジプトの決断を歴史的な成果として大きく評価する一方、アラブ諸国ではこれをエジプトの「裏切り」とみなし激しく非難した。この結果、中東各国でエジプトとの断交や対エジプトの経済制裁が実施され、エジプトはアラブ連盟からも追放された。またこの和平と親西側路線への転換によってエジプトはアメリカから巨額の経済・軍事援助を獲得した。 アメリカからの支援を梃子に政治・経済的自由化を進めたサーダートの政策(インフィターハ、門戸開放)は、アラブ諸国からの投資も呼び込み、サービス業を中心に経済を活性化させたが、インフレーションと格差拡大、対外債務の膨張も進行した。また、政治的自由化は形式的なものに留まった。エジプトでは1977年に複数政党制が導入され、アラブ社会主義連合を右派の社会主義自由党(英語版)、左派の国民統一進歩党、中道派の社会主義アラブ・エジプト党(英語版)にそれぞれ改編されたが、翌1978年にサーダートが国民民主党(NDP)を組織し社会主義アラブ・エジプト党を吸収すると、アラブ社会主義連合が持っていた大衆動員機能はほとんど国民民主党が引き継ぐことになり、中央政権および地方の議席は実質的にはそれまでのアラブ社会主義連合と同じく、国民民主党が一党支配体制下を敷き続けた。 サーダートに対しては、一族による政権私物化という批判が強まり、またイスラエルの和平には強硬派からの強い批判が続けられていた。そして1981年9月3日、イスラーム過激派のジハード団に所属していた陸軍士官によってサーダートは暗殺された。
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