ミハイル・エフレモフとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ミハイル・エフレモフの意味・解説 

ミハイル・エフレモフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 16:02 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

ミハイル・グリゴリエヴィッチ・エフレモフロシア語: Михаил Григорьевич Ефремов1897年2月27日3月11日) - 1942年4月19日)は、ソ連の軍人。中将。ヴャゼム包囲網突破の際に戦死した。

経歴

タルーサ(現カルーガ州)出身。1915年11月、ロシア帝国軍に召集され、1916年、准尉(少尉補)学校を卒業した。第一次世界大戦に従軍。十月革命時、第1ザモスクヴォレツキー赤衛隊に入隊し、モスクワでの十月武装蜂起に参加した。

1918年から赤軍。1919年から共産党員。ロシア内戦時、南部戦線とカフカーズ戦線において、中隊、大隊、鉄道連隊、狙撃旅団、師団を指揮。1920年の赤軍のアゼルバイジャン侵攻ロシア語版によるバクー解放時、装甲列車支隊を指揮して功績を挙げた。内戦終結後、狙撃師団長、軍団長。1927年、駐華軍事顧問。1928年、高等指揮要員完全化課程、1930年、軍事政治アカデミー、1933年、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業。1937年5月、沿ヴォルガ軍管区司令官、同年11月、ザバイカル軍管区司令官、1938年7月、オリョール軍管区司令官、1940年6月、北カフカーズ軍管区司令官、同年8月、ザカフカーズ軍管区司令官。1941年1月、労農赤軍第一副歩兵総監に任命。

独ソ戦時、第21軍、後に第10軍を指揮し、ブリャンスク戦線副司令官となった。1941年10月、第33軍司令官。1942年4月、ヴャジマ包囲網突破の際に致死傷を負った(自殺説もある)。ヴャジマに葬られ、後に記念碑が建てられた。なお、第33軍の将兵1万2千人中、包囲網から脱出できたのは889人に過ぎなかった。

第1期ソ連最高会議代議員。

表彰・受勲

レーニン勲章、赤旗勲章2個、労働赤旗勲章、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国赤旗勲章、「労農赤軍20周年」メダルを受章。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ミハイル・エフレモフ」の関連用語

ミハイル・エフレモフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ミハイル・エフレモフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのミハイル・エフレモフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS