第1次開封攻囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
「1126年開封攻囲戦」も参照 完顔宗望率いる東軍は燕京(現在の北京市)を占領し、最終的に開封を目指す事となった。燕京占領時に武力衝突はあまりなく、容易に燕京を占拠した。また宋側の将軍の郭薬師は宋を見限り金に寝返った。宋が十六州を奪還しようとした際にはあった漢民族による抵抗は、金の侵入の際には全くなく、1125年末までに金は二州を征服し、十六州の再支配を確立した。1126年初頭には開封にまで迫った。 金軍の開封接近から徽宗は華北の放棄を計画したが、皇帝の都落ちは降伏と同然であるが故に官人らは退位を迫った。反対意見は殆ど無く、皇帝の危機からの脱出は帝位継承の儀礼よりも重んじられていた。1126年旧正月直前に徽宗は息子への譲位を行い太上皇帝(上皇)へと降格となった。旧正月の2日後であった1126年1月27日に金軍は黄河に到達した。徽宗(上皇)はその翌日に欽宗(現皇帝)を残して開封から逃れた。 開封は1126年1月31日に攻囲された。宋は金に臣従し宰相と皇太子を捕囚とし河間・太原・中山を割譲する事を条件に講和した。金は加えて金銀各5000万両、鉄・絹各100万本、馬・ラバ・牛各1万頭、ラクダ1000頭の賠償を要求した。これは宋が金に1123年以来支払ってきた歳幣の180年分に相当した。 宋では遠方からの援助が見込めず、金との講和に賛成する官人と反対する者とで対立が生じた。李綱はこの時援軍の到着と金軍の物資の枯渇を待って防衛体制を維持する事を提案した。しかし夜間の金軍への待ち伏せ作戦は鄧桂の暴露により失敗し、和平派が次第に優勢となった。この奇襲の失敗は欽宗が金との講和に応じるように傾く切っ掛けとなり、官人らも欽宗を講和に応じるよう説得した。宋は金による三州の支配を認め。金軍は包囲開始から33日後の3月になって包囲を解いた。
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