第1次防衛力整備計画
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第1次防衛力整備計画(だいいちじぼうえいりょくせいびけいかく、 英語: First Defense Build-up Plan[1])は、日本国自衛隊の軍備計画。略称は「一次防」または「1次防」。第二次世界大戦後初めての日本における長期軍備計画である。
前史
戦後日本における防衛計画を諮問する機関として1954年(昭和29年)の防衛庁設置法で防衛庁(現 防衛省)設置と同時に設置されることとなっていた国防会議が規定されていた。しかし、その構成員の問題で大幅に遅れ1956年(昭和32年)7月正式に発足する。これをうけて直ちに「国防の基本方針」が検討された。
国防の基本方針では、「直接及び間接の侵略を未然に防止し、万一侵略が行なわれるときはこれを排除し、もって民主主義を基調とするわが国の独立と平和を守ることにある」と規定された。
これを受けて日本の今後の国防政策は、国際連合を支持し、国際協調を基礎とするが、国際連合による安全保障体制が構築し実効性を持つまでは、日米安保体制に依拠する対外交政策と、民政安定による国防基盤を形成できる国内政策を基調に、漸進的に防衛力を整備するとした。しかし、自衛隊の具体的な役割や規定はなかった[2]。
このため、具体的内容を規定する目的で1957年(昭和32年)6月に「防衛力整備目標について」が国防会議で決定され、第1次岸内閣の閣議了承を経た。これが第一次防衛力整備計画(略称:一次防)となる。
方針
1958年(昭和33年)度から1960年(昭和35年)度までの3年間(一部は昭和37年度末まで対象)を対象に、骨幹防衛力の整備を目的とした。本計画は、以下の方針に基づき立案された。1957年(昭和32年)に国防会議の答申に基づいて、国防の基本方針は閣議決定された。
の整備を目標とした。
特に陸上自衛隊は、在日米軍陸軍部隊の急速な縮小がなされており、その空白の補完を必要としており海空防衛力も含めての骨幹防衛力の整備、実態としては一応の体制を確立することが主眼として策定された。
概要
当初予算総額は3年間で合計4,614億円。一般会計予算の構成比では平均値約10.76%。対GNP比は平均値1.13%[3]。
整備目標
- 陸上自衛隊
-
- 昭和35年度末までに6個管区隊、4個混成団、定員180,000人の整備。
- 航空自衛隊
部隊の新編・改編
- 海上自衛隊
-
- 第3護衛隊群を新編
脚注
参考文献
- 草地貞吾「自衛隊史1984年度版」(日本防衛調査協会、1984年)
- 藤原彰「日本軍事史下巻 戦後篇」(社会批評社、2007年)
- 黒川雄三「近代日本の軍事戦略慨史」(芙蓉書房出版、2003年)
- 廣瀬克哉「官僚と軍人 -文民統制の限界」(岩波書房、1989年)
外部リンク
- 防衛力整備目標についての閣議了解 - 国立国会図書館
第1次防衛力整備計画
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「航空自衛隊の歴史」の記事における「第1次防衛力整備計画」の解説
1次防の下で航空自衛隊は拡張する。1957年8月1日、府中基地にて航空集団(後の航空総隊)が編成される。1957年9月2日に千歳、松島、矢の目、宇都宮、入間川、浜松、小月、美保、防府、築城、板付に管制分遣隊と気象分遣隊が新編され、続く10月21日に三沢にて、12月20日に新田原、翌1958年1月16日に管制分遣隊が新編、8月1日に静浜、小牧および木更津に管制分遣隊が新編される。1959年6月1日に矢の目を除く全管制分遣隊が管制隊に改編され、アメリカ空軍の管理下にあった日本全国を網羅する航空管制態勢が順次引き渡されている。1959年3月末までに航空総隊、北部航空方面隊(三沢)、中部航空方面隊(入間)、西部航空指令所(春日)の主要部隊を始めとして、第1から第4までの航空団、輸送航空団、航空保安管制気象群、救難航空隊、実験航空隊、管制教育団など現在の航空自衛隊の基盤となる部隊・機関が新編される。 この当時、最初の8年間だけで70名の殉職者を出しており、大中規模の航空事故件数も昭和31年度で33件、昭和32年度は47件に及んでおり、1957年9月にこの状況を重く見た第3代航空幕僚長源田実空将は飛行安全検閲を実施し、11月には航空幕僚監部内に監察官が新設される。これ以降、安全に関わる分野に多くの予算が注ぎ込まれ、物心両面において不備対策が推進され航空事故件数は減少していった。そして1958年3月にヘリコプターを装備する臨時救難航空隊が新編された。 1959年6月1日に飛行教育集団が新編され、第11から第17までの通し番号付き飛行教育団と第1航空団および第4航空団が集約され、飛行教育部隊については一本化される。同年6月、岐阜基地に置かれていた整備学校分校が航空自衛隊第3術科学校に、9月に整備学校が航空自衛隊第1術科学校に、通信学校が航空自衛隊第2術科学校にそれぞれ改編される。 1959年、百里基地ではF-104J戦闘機受け入れのために滑走路、格納庫、燃料施設などの航空機受け入れ施設の整備が開始される。 1960年3月30日から翌31日まで初の航空総隊防空演習が実施され、航空機約300機が参加する。同年、戦後初の国産ジェット航空機T-1練習機の飛行が開始される。
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