第3次防衛力整備計画
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第3次防衛力整備計画(だいさんじぼうえいりょくせいびけいかく、 英語: Third Defense Build-up Plan[1])は、日本国自衛隊の軍備計画。略称は「三次防」または「3次防」。
高度経済成長期の只中にあり一般会計の増大と合わせ防衛費も増加した[2]。本計画をもって、装備量や部隊編制などの面で安定期に入り、正面装備の近代化が進められた[3]。
方針
1967年(昭和42年)度から1971年(昭和46年)度までの5年間を対象に、通常兵器による局地戦以下の侵略に最も有効に対処することを目的とした。本計画は、以下の方針を目標に立案された。
一般方針として、内外情勢、国力の伸張、国際的地位の向上を勘案しつつ
- 陸・海・空自衛隊の内容の充実
- 精強な部隊建設、隊員の士気高揚
- 技術開発の推進、装備の近代化と適切な国産化
などのほか、より具体的には
を重視した整備を目標とし、「防衛計画の大綱」の未作成を補った。なお、数的目標は示されず、計画期間中の追加量だけが示された。
概要
本計画は1966年(昭和41年)11月29日の国防会議で第三次防衛力整備計画の大綱が第1次佐藤内閣第2次改造内閣のもとで決定。1967年(昭和42年)3月14日に計画の主要項目が第2次佐藤内閣の閣議で決定された。
経費総額は2兆3,400億円を目処に上下に250億円の幅を見込んだ。
当初予算総額は5年間で合計2兆5272億円。一般会計予算の構成比では5年間の平均値7.3%。対GNP比は5年間の平均値0.818%[4]。
なお、次期主力戦闘機の機種選定をめぐって後にダグラス・グラマン事件が起こる。
整備目標
- 大・中型輸送ヘリコプター計83機の整備。
- 61式戦車280輌、装甲車160両の整備。
- ホーク装備部隊3個大隊の整備。
- 対戦車ミサイル、自走無反動砲、対空機関砲、大型雪上車の整備
- 各方面隊に1個空輸中隊の整備。
- 1,800名から成る特別空輸連隊1個の整備。
- ヘリコプター搭載護衛艦2隻の整備。
- 対空ミサイル搭載護衛艦1隻の整備。
- その他護衛艦15隻の整備。
- 潜水艦5隻の整備。
- 国産対潜哨戒機15機の整備。
- 対潜ヘリコプター40機の整備。
部隊の新編・改編
- 陸上自衛隊
- 海上自衛隊
- 2個潜水隊の新編
- 5個地方隊向け2桁隊の新編
- 航空自衛隊
- 5個要撃飛行隊の新編
- 2個高射群の新編(実際は第3高射群のみ)
脚注
参考文献
第3次防衛力整備計画
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「航空自衛隊の歴史」の記事における「第3次防衛力整備計画」の解説
3次防の時代には航空自衛隊の編制は全国各地を網羅できる態勢が整えられ、自動警戒管制組織導入の他、戦闘機ほか各種航空機の国産化が推進される。 1963年11月11日から15日まで航空幕僚監部を含めた初の大規模総合指揮所演習が実施される。この演習において緊迫状況下での警戒、作戦準備、防空作戦、航空軍事輸送が日本全域を舞台に展開する。 1969年10月に佐渡分屯基地にて勤務していた、後に反戦自衛官として知られる小西誠による訓練拒否が問題となり、初の自衛隊法違反事件として長年に渡り自衛隊の合憲性を問う裁判が行われる。1969年2月8日に石川県金沢市上空にて落雷の直撃を受けたF-104J戦闘機が市街地に墜落し多数の死傷者を出している。1971年7月30日、岩手県上空にて全日空機雫石衝突事故が発生、このため防衛庁長官増原惠吉と共に航空幕僚長上田泰弘空将は引責辞任する。事故後、航空法は改正され自衛隊機にもトランスポンダとフライトレコーダーの装着義務が定められた。 1970年3月にはよど号ハイジャック事件が発生し、航空自衛隊機が空中監視を実施している。 1971年7月には国産のT-2高等練習機が初飛行を実施している。同年11月にはC-1輸送機が初飛行し、1973年から部隊配備が開始される。さらに第2次F-Xに採用されたF-4EJ戦闘機の導入が開始されている。
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