第3次遠征隊とは? わかりやすく解説

第3次遠征隊(1924年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 06:59 UTC 版)

ジョージ・マロリー」の記事における「第3次遠征隊(1924年)」の解説

1923年アメリカ合衆国での講演活動行ったマロリーは、1924年の第3次遠征隊にも参加要請された。1922年同様隊長ブルース将軍務め副隊長にはノートン大佐選ばれた。58歳のブルース将軍にとって年齢的にこの山行最後のチャンスだろうと思われていた。隊員として経験者のジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム(Bentley Beetham )、E・O・シェビア(E. O. Shebbeare ) 地質学者でもあったノエル・オデールマロリー最期共にする事となるアンドリュー・アーヴィンらが選ばれた。 一行2月28日リヴァプール出航3月ダージリン到着し3月終わりダージリンから陸路エベレスト目指したが、道中マラリアのためブルース将軍離脱ノートン隊長になった4月28日遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプ設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは標高7,000m付近に第4キャンプ設けて頂上アタック拠点とし、そこから頂上までの間に2つキャンプ設けることにした。マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートンサマヴィルらと山頂目指したが失敗し6月6日22歳の若いアンドルー・アーヴィン1人連れて第4キャンプ出発、再びノース・コル経由山頂目指した。今回マロリーは、1922年フィンチ隊の健闘見て酸素器具対す認識改めて、自らも積極的に使うことにしていた。ノエル・オデール2人サポートすべく単身標高7,710mの第5キャンプにあがり6月8日の朝8時過ぎ標高8,230mの第6キャンプ目指し登り始めた。 その途中標高8,077m付近でオデールはふと顔を上げ晴れ上がって頂上青い空中に現れるのを見た、そこで目にしたものを彼は生涯忘れることがなかった。 12時50分頃だった。私が初めエベレスト化石見付けて大喜びしていたまさその瞬間、空が突然晴れ上がりエベレスト山頂が姿を現した。私は山壁に1つ小さな点を見出した。それは大きな岩塊の下、の上浮き出た小さな点だった。やがて雪上にもう1つ小さな点が現れ最初の点に追い付こう動いていた。第1の点が岩の上とりつくと第2の点も続いた。そこで再びが山を覆い、何も見えなくなった。 この時オデールは2人がセカンドステップにたどり着くところを見た語った。オデールの証言以外にこれを証明するものはなく、彼らがセカンドステップにたどり着いたかどうかわからないファーストステップ周辺には空の酸素ボンベ1933年見付かったアーヴィンアイス・アックスがあった)が、逆に言えばたどり着かなかったという証拠もない。その後2人の姿は山中消えた。 オデールが午後2時に第6キャンプ到着した頃、風雪強かったしばらくして戻ってくる2人吹雪キャンプ見付けられないといけないと考えたオデールは、テント出て口笛吹いたヨーデル風の歌歌ったりしていたが、人の気配はなかった。下山する2人のための用意終えたオデールは、4時半に第6キャンプを後にした。下りながらオデールはたびたび山頂方向眺めたが、下山する2人の姿はついに見ることができなかった。第4キャンプまで下りて1泊した明くる日6月9日、オデールは再び第5キャンプから第6キャンプ向かったが、人が入った形跡はなかった。モンスーン接近のため、遠征隊は2人あきらめて山を下りることになったマロリーアーヴィンは、おそらく6月8日あるいは6月9日命を落としたであろう今や国民的ヒーローとなっていたマロリー遭難ニュースは、イギリス中に大きな衝撃与えた10月17日行われたマロリーアーヴィン追悼式は、国葬のような規模セント・ポール大聖堂において行われ列席者の中には時の首相ラムゼイ・マクドナルド国王ジョージ5世をはじめロイヤル・ファミリーの姿もあった。

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第3次遠征隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 04:31 UTC 版)

エベレスト」の記事における「第3次遠征隊」の解説

1924年組織実行参加者 チャールズ・ブルース准将 - 第2次同様に隊長だったが、ダージリンからエベレストまでの道中マラリアのため離脱エベレスト登山はこれが最後となり、1939年死去したノートン大佐 - 副隊長だったが、ブルース准将離脱隊長となったマロリー - 経験者。 ジェフリー・ブルース - 経験者サマヴィル - 経験者。 ベントリー・ビーサム (Bentley Beetham) E・シェビア (E. O. Shebbeare) ノエル・オデール - 地質学者アンドリュー・アーヴィン その他 2月28日リヴァプール出航3月ダージリン到着し3月終わりダージリンから陸路エベレスト目指した。4月28日遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプ設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000 m付近に第4キャンプ設けて頂上アタック拠点とし、そこから頂上までの間に2つキャンプ設けることにした。ノートンサマヴィルとともに酸素ボンベなしで頂上目指し途中から一人北壁トラバース標高8572 mに到達人類の最高到達記録更新した引き返したマロリー6月8日22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人連れて第6キャンプ出発酸素ボンベ使用して山頂目指した。2人このまま行方不明になり、第3次遠征隊は山を下りた。さらに許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されチベット人習俗不正確であったことが当時ダライ・ラマ怒らせ以後9年エベレスト入山許可が出なかった。

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