第3次遠征隊(1924年)
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「ジョージ・マロリー」の記事における「第3次遠征隊(1924年)」の解説
1923年、アメリカ合衆国での講演活動を行ったマロリーは、1924年の第3次遠征隊にも参加を要請された。1922年同様隊長はブルース将軍が務め、副隊長にはノートン大佐が選ばれた。58歳のブルース将軍にとって年齢的にこの山行が最後のチャンスだろうと思われていた。隊員として経験者のジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム(Bentley Beetham )、E・O・シェビア(E. O. Shebbeare ) 地質学者でもあったノエル・オデール、マロリーと最期を共にする事となるアンドリュー・アーヴィンらが選ばれた。 一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは標高7,000m付近に第4キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、6月6日、22歳の若いアンドルー・アーヴィン1人を連れて第4キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。今回のマロリーは、1922年のフィンチ隊の健闘を見て酸素器具に対する認識を改めて、自らも積極的に使うことにしていた。ノエル・オデールは2人をサポートすべく単身標高7,710mの第5キャンプにあがり、6月8日の朝8時過ぎに標高8,230mの第6キャンプを目指して登り始めた。 その途中、標高8,077m付近でオデールはふと顔を上げ、雲が晴れ上がって頂上が青い空の中に現れるのを見た、そこで目にしたものを彼は生涯忘れることがなかった。 12時50分頃だった。私が初めてエベレストで化石を見付けて大喜びしていたまさにその瞬間、空が突然晴れ上がり、エベレストの山頂が姿を現した。私は山壁に1つの小さな点を見出した。それは大きな岩塊の下、雪の上に浮き出た小さな点だった。やがて雪上にもう1つの小さな点が現れ、最初の点に追い付こうと動いていた。第1の点が岩の上にとりつくと第2の点も続いた。そこで再び雲が山を覆い、何も見えなくなった。 この時オデールは2人がセカンドステップにたどり着くところを見たと語った。オデールの証言以外にこれを証明するものはなく、彼らがセカンドステップにたどり着いたのかどうかわからない(ファーストステップ周辺には空の酸素ボンベや1933年に見付かったアーヴィンのアイス・アックスがあった)が、逆に言えばたどり着かなかったという証拠もない。その後、2人の姿は山中に消えた。 オデールが午後2時に第6キャンプへ到着した頃、風雪が強かった。しばらくして戻ってくる2人が吹雪でキャンプを見付けられないといけないと考えたオデールは、テントを出て口笛を吹いたりヨーデル風の歌を歌ったりしていたが、人の気配はなかった。下山する2人のための用意を終えたオデールは、4時半に第6キャンプを後にした。下りながらオデールはたびたび山頂方向を眺めたが、下山する2人の姿はついに見ることができなかった。第4キャンプまで下りて1泊した明くる日の6月9日、オデールは再び第5キャンプから第6キャンプへ向かったが、人が入った形跡はなかった。モンスーンの接近のため、遠征隊は2人をあきらめて山を下りることになった。 マロリーとアーヴィンは、おそらく6月8日あるいは6月9日に命を落としたのであろう。今や国民的ヒーローとなっていたマロリー遭難のニュースは、イギリス中に大きな衝撃を与えた。10月17日に行われたマロリーとアーヴィンの追悼式は、国葬のような規模でセント・ポール大聖堂において行われ、列席者の中には時の首相ラムゼイ・マクドナルドや国王ジョージ5世をはじめロイヤル・ファミリーの姿もあった。
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第3次遠征隊
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1924年組織・実行。 参加者 チャールズ・ブルース准将 - 第2次同様に隊長だったが、ダージリンからエベレストまでの道中でマラリアのため離脱。エベレスト登山はこれが最後となり、1939年に死去した。 ノートン大佐 - 副隊長だったが、ブルース准将の離脱で隊長となった。 マロリー - 経験者。 ジェフリー・ブルース - 経験者。 サマヴィル - 経験者。 ベントリー・ビーサム (Bentley Beetham) E・シェビア (E. O. Shebbeare) ノエル・オデール - 地質学者。 アンドリュー・アーヴィン その他 2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路でエベレストを目指した。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000 m付近に第4キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。ノートンはサマヴィルとともに酸素ボンベなしで頂上を目指し、途中から一人で北壁をトラバースし標高8572 mに到達、人類の最高到達記録を更新したが引き返した。マロリーは6月8日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第6キャンプを出発、酸素ボンベを使用して山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第3次遠征隊は山を下りた。さらに許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった。
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