第3次長期計画 - 再建計画
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「日本国有鉄道」の記事における「第3次長期計画 - 再建計画」の解説
「日本鉄道建設公団」も参照 「第2次5カ年計画」は国鉄の近代化に大きく貢献したものの、資金不足で1964年(昭和39年)に打ち切られ、新たに多額の借り入れによって輸送改善を推進する「第3次長期計画」に移行。俗に「ヨンサントオ」と呼ばれる1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正では、新性能電車などの大量投入を実現した。また高度経済成長に合わせて急速に増大した首都圏の通勤輸送に対応するため、「通勤五方面作戦」と称する輸送力増強計画も進められた。 しかし国鉄財政の一層の悪化を受けて第3次長期計画は同年で打ち切られ、職員削減、省力化などの合理化が本格的に始まった。国鉄諮問委員会は1968年(昭和43年)9月、経営体質の改善が急務として地方83線区(赤字83線)を廃止すべきとの意見書を提出し、国鉄は赤字ローカル線の整理に乗り出した。また同年11月には運輸大臣の諮問機関である国鉄財政再建推進会議も、経営合理化、近代的輸送方式の整備促進、市町村納付金の大幅削減などの具体策を盛り込んだ意見書を提出。政府は1969年(昭和44年)、日本国有鉄道財政再建特別措置法を成立させ、10年後の黒字転換を掲げる「財政再建10カ年計画」がスタートした。 しかし、「日本列島改造」を掲げる第1次田中角栄内閣が発足すると、赤字83線の整理計画はわずか4年で打ち切られた。さらに田中内閣は日本鉄道建設公団によるローカル新線建設を継続した。貨物輸送の落ち込みと人件費の増大なども重なり、10カ年計画は再三行き詰まって見直しを余儀なくされた。 この時期、国鉄の労使関係は合理化の強化と政治要素が絡んで極度に悪化した。国鉄当局が進めた生産性向上運動(マル生運動)に伴って発生した労働組合に対する不当労働行為問題は、1980年代にかけて現場の混乱と規律低下を招いた。ストライキも頻発し、ダイヤ改正が延期されたり、乗客による暴動(上尾事件・首都圏国電暴動)に発展した事件もあった。1975年(昭和50年)に国労と動労が行った大規模な「スト権奪還ストライキ」は、この時モータリゼーションの発展で国鉄のシェア低下が進んでいた事に加え、すでに発達していた国鉄以外の公共交通機関や貨物輸送が十分に機能したため、日本全体に悪影響を及ぼすことなく収束。労働組合側の弱体化を招く結果となった。
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