第1次長嶋監督時代とは? わかりやすく解説

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第1次長嶋監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 11:59 UTC 版)

読売ジャイアンツ」の記事における「第1次長嶋監督時代」の解説

1975年 前年引退した長嶋茂雄監督就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズ挙げた自身引退したことによる戦力の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位転落するそのまま浮上することができず、全球団に負け越した上に9月には球団史上新記録当時)の11連敗球団史上初の最下位に終わる。その年のオフ日本ハムから張本勲太平洋から加藤初トレード補強するまた、2021年現在リーグ最下位はこれが最初で最後であり、現存12球団の中で最も最下位から遠のいている。 1976年 前年最下位から一転してリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズでは、阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れる。 1977年 9月3日王貞治ハンク・アーロンを抜く通算本塁打756本の世界新記録樹立チーム独走状態で2年連続リーグ優勝を果たす。日本シリーズでは2年連続阪急対戦するが1勝4敗で2年連続シリーズ敗退1978年 ヤクルト優勝争い繰り広げる8月末に2位ヤクルト4.5ゲーム差をつけ首位立っていたが、9月以降成績急降下ヤクルト逆転許し2位に終わる。このときの戦いぶりから長嶋に対して監督としての資質に、次第疑問投げかけられてゆくようになる。そして1978年オフ当時法政大学野球部OB作新学院職員としてアメリカ留学した江川卓獲得巡っていわゆる江川事件起きる。最終的に1979年2月に、江川がいったん阪神タイガース入団し、その直後小林繁交換トレードをすることで決着がつく。だが、この江川事件マスコミ総攻撃を受けることになった1979年 5月まで首位立ったものの、6月以降成績次第降下していき、Bクラス5位に終わる。一方で中畑清が3塁のレギュラー獲得するなど若手台頭若干見られるうになる同年オフに、青田昇ヘッドコーチ就任し伊東での秋季キャンプでは松本匡史中畑清江川西本聖角三男らを猛特訓した。後に「地獄の伊東キャンプ」として語られていく。 1980年 開幕早々ペナントレースから脱落し長嶋茂雄対す批判これまでにないほど高まっていった。シーズン後半から若手起用して5割Aクラス確保したしかしながら、2リーグ分立後で球団史上初となる3年連続V逸であり、10月21日長嶋チーム不振責任取って「男のケジメ」という言葉を残し辞任する当日スポーツニッポンが「長島解任」とスクープ報道したように、読売新聞幹部による事実上解任だった。この動きに対してファン激怒し読売新聞報知新聞スポーツ報知)の購読打ち切りを行うファン続出した同年オフ、王も現役引退巨人一筋22年現役生活ピリオドを打った

※この「第1次長嶋監督時代」の解説は、「読売ジャイアンツ」の解説の一部です。
「第1次長嶋監督時代」を含む「読売ジャイアンツ」の記事については、「読売ジャイアンツ」の概要を参照ください。

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