第1次遠征隊(1921年)
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「ジョージ・マロリー」の記事における「第1次遠征隊(1921年)」の解説
1852年、インド測量局によって「P-15」と呼ばれていた山が世界最高峰であることが明らかになると、測量局は前長官ジョージ・エベレストにちなんで同山を「エベレスト山」と名付けた。1893年に、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンドとグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将(en:Charles Granville Bruce )がエベレスト登頂について話し合ったのが最初であると言われる。1907年には英国山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された。この時代、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争で敗れていたイギリスは帝国の栄誉を「第3の極地」エベレストの征服にかけようとしていた。第一次世界大戦の勃発によって計画は先送りになるが、戦争の終結と共に英国山岳会と王立地理学会がエベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、ここにエベレスト遠征が具体化し始めた。 1921年、マロリーはエベレスト委員会によって組織された第1次エベレスト遠征隊に招聘された。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し、代わってチャールズ・ハワード=ベリ(Charles Howard-Bury )中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレグザンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭の若手としてマロリーとジョージ・イングル・フィンチが選ばれた。フィンチは後に健康状態を理由に降板し、代わりにマロリーのウィンチェスター校以来の友人で領事だったガイ・ブロック(Guy Bullock )が選ばれた。 この第1次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行はエベレストのノース・コル(North Col 、チャン・ラとも呼ばれる、標高7,020m)に至るルートを確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成した。遠征隊にはイギリス山岳会の主要なメンバーやインド測量局から派遣された測量官が参加していたが、高山病の影響によって登山は思うように進まなかった。また、6月5日にケラス博士を失うという悲劇にも見舞われた。マロリーはガイ・ブロック、インド測量局のE・O・ウィーラー(E. O. Wheeler )らとともにシェルパの力を借りてエベレスト周辺の調査を行った。ノース・コル経由の北壁ルートが登頂に最適であることが判明したのはこのときであった。 一行は6月25日にロンブク氷河にキャンプを設けて、登頂ルートの選定にあたった。このパーティーはおそらくローツェ・フェイスの下に連なるウェスタン・クウム(Western Cwm )を眺めた初めての西洋人となり、また同様にロンブク氷河から北壁へのルートを見出した最初の西洋人だったと考えられる。山を南側に回った一行は、東ロンブク氷河のルートを見出した、これは今でもチベット側から登頂するほとんど全ての登山者に利用されている最速ルートである。マロリーはついにノース・コルの鞍部へ上がることに成功し、これによってマロリーはエベレストの山そのものに足を踏み入れた最初の人間になっただけでなく、難関セカンドステップを越えて北東稜から山頂に至るコースを見出すことになった。9月25日、全員がカールタの基地に戻り、第1次遠征は終了した。
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第1次遠征隊
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1921年、エベレスト委員会によって組織・実行。 参加者 チャールズ・ハワード=ベリー (Charles Howard-Bury) 中佐 - 隊長。中央アジアを巡回した経験を持つ歴戦の英雄。当初はグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将が隊長に適任とみられたが、軍務に影響があるという理由で回避された。 アレクサンダー・ケラス (Alexander Kellas) 博士 - カシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であった。 オリヴァー・ウィーラー (Oliver Wheeler) - 医師。 ヘンリー・モーズヘッド (Henry Morshead) - 測量班としてのちにインド測量局の長官をつとめることになる。 アレクサンダー・ヘロン (Alexander Heron) - インド測量局局員。 ハロルド・レイバーン (Harold Raeburn)、 - 50代のベテラン登山家。登攀部隊のリーダー。 ジョージ・マロリー - 若手登山家として知られていた。 ジョージ・フィンチ - オーストラリア生まれ。同じく若手登山家として知られるが、直前になって健康を理由にメンバーから外された。 ガイ・ブロック (Guy Bullock) - フィンチに代わるマロリーの登山仲間で、マロリーの推薦によって選ばれた。 第1次は登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査とルート確認を目的として英国を出発。インドのカルカッタに上陸後、ダージリンからチベットを回り込んでエベレストを目指した。チベットのカンパ・ゾンでは、体調がすぐれなかったケラス博士が心臓発作で亡くなるというアクシデントに見舞われたが、遠征隊はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020 m)にいたるルートを確認するとともに、エベレスト周辺の詳細な地図を初めて作成することに成功して帰国した。
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