第1次遠征隊とは? わかりやすく解説

第1次遠征隊(1921年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 06:59 UTC 版)

ジョージ・マロリー」の記事における「第1次遠征隊(1921年)」の解説

1852年インド測量局によって「P-15」と呼ばれていた山が世界最高峰であることが明らかになると、測量局は前長官ジョージ・エベレストにちなんで同山を「エベレスト山」と名付けた1893年に、東アジア軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンドグルカ連隊勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将en:Charles Granville Bruce )がエベレスト登頂について話し合ったのが最初であると言われる1907年には英国山岳会創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣提案された。この時代北極点到達1909年)および南極点制覇1911年)の競争敗れていたイギリス帝国栄誉を「第3極地エベレスト征服かけようとしていた。第一次世界大戦の勃発によって計画先送りになるが、戦争の終結と共に英国山岳会王立地理学会エベレスト委員会組織しヤングハズバンド委員長となって、ここにエベレスト遠征具体化し始めた1921年マロリーエベレスト委員会によって組織され第1次エベレスト遠征隊に招聘された。隊長にはグルカ連隊長年勤務し地理明るく地元民信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し、代わってチャールズ・ハワードベリCharles Howard-Bury )中佐選ばれた。隊員としてカシミール地方詳しく高度と人体影響に関して専門家であったアレグザンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭若手としてマロリージョージ・イングル・フィンチ選ばれた。フィンチは後に健康状態理由降板し、代わりにマロリーウィンチェスター以来友人領事だったガイ・ブロック(Guy Bullock )が選ばれた。 この第1次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行エベレストノース・コルNorth Col 、チャン・ラとも呼ばれる標高7,020m)に至るルート確認し初めエベレスト周辺詳細な地図作成した遠征隊にはイギリス山岳会主要なメンバーインド測量局から派遣され測量官が参加していたが、高山病影響によって登山思うように進まなかった。また、6月5日にケラス博士を失うという悲劇にも見舞われた。マロリーはガイ・ブロック、インド測量局のE・OウィーラーE. O. Wheeler )らとともにシェルパ力を借りてエベレスト周辺調査行ったノース・コル経由北壁ルート登頂最適であることが判明したのはこのときであった一行6月25日ロンブク氷河キャンプ設けて登頂ルート選定あたった。このパーティーはおそらくローツェ・フェイスの下に連なるウェスタン・クウム(Western Cwm )を眺めた初めての西洋人となり、また同様にロンブク氷河から北壁へのルート見出した最初西洋人だったと考えられる。山を南側回った一行は、東ロンブク氷河ルート見出した、これは今でもチベット側から登頂するほとんど全ての登山者利用されている最速ルートである。マロリーはついにノース・コル鞍部上がることに成功し、これによってマロリーエベレストの山そのもの足を踏み入れた最初の人になっただけでなく、難関セカンドステップを越えて北東稜から山頂に至るコース見出すことになった9月25日全員がカールタの基地戻り第1次遠征終了した

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第1次遠征隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 04:31 UTC 版)

エベレスト」の記事における「第1次遠征隊」の解説

1921年エベレスト委員会によって組織実行参加者 チャールズ・ハワードベリー (Charles Howard-Bury) 中佐 - 隊長中央アジア巡回した経験を持つ歴戦英雄当初グルカ連隊長年勤務し地理明るく地元民信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将隊長適任とみられたが、軍務影響があるという理由回避された。 アレクサンダー・ケラス (Alexander Kellas) 博士 - カシミール地方詳しく高度と人体影響に関して専門家であった。 オリヴァー・ウィーラー (Oliver Wheeler) - 医師。 ヘンリー・モーズヘッド (Henry Morshead) - 測量としてのちにインド測量局の長官をつとめることになる。 アレクサンダー・ヘロン (Alexander Heron) - インド測量局員。 ハロルド・レイバーン (Harold Raeburn)、 - 50代ベテラン登山家登攀部隊リーダージョージ・マロリー - 若手登山家として知られていた。 ジョージ・フィンチ - オーストラリア生まれ同じく若手登山家として知られるが、直前になって健康を理由メンバーから外された。 ガイ・ブロック (Guy Bullock) - フィンチ代わるマロリー登山仲間で、マロリー推薦によって選ばれた。 第1次登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査ルート確認目的として英国出発インドカルカッタ上陸後ダージリンからチベット回り込んでエベレスト目指した。チベットのカンパ・ゾンでは、体調がすぐれなかったケラス博士心臓発作亡くなるというアクシデント見舞われたが、遠征隊はエベレストノース・コルNorth Col、チャン・ラとも呼ばれる標高7020 m)にいたるルート確認するとともにエベレスト周辺詳細な地図初め作成することに成功して帰国した

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