登山家として
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橋本龍太郎は日本山岳会の会員でもあり、日本山岳ガイド協会の会長を長きにわたり務めた。1973年、第2次RCCのエベレスト南壁(現・南西壁)の遠征隊の総隊長を務めた。この他にも、多くの海外遠征登山隊の総隊長に就任したり、あるいは総指揮を担当した。生前、「七十歳になったら、もう一度エベレストに登りたい。君たちも夢を大事にして追いかけてほしい」と少年たちに語っていた。 登山家の野口健とも親しかった。2000年にエベレストの清掃登山を行っていた野口健は、12年前に同じく登頂を果たした橋本総隊長のJPNテレビ登山隊(日中ネパール合同隊)が置いていった酸素ボンベを発見し、帰国後橋本の議員会館事務所を訪れて酸素ボンベを届けた。当初橋本龍太郎は野口を失礼な人間だと感じたが、これが切っ掛けで2人は親しくなり、野口は橋本を父親の様に慕っていたという。2006年正月に野口は橋本から「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け。」と橋本愛用のピッケルを渡されたという。山をこよなく愛したことから、青山墓地にある一家の墓とは別にエベレストを望むネパールのタンポチェ村に慰霊碑がある。野口はヒマラヤ登山の度に訪れている。慰霊碑は2007年に完成し、同年3月30日に、日本からの関係者も出席して式典が営まれた。 橋本との縁で橋本没後、野口事務所には橋本龍太郎の当時公設秘書だった藤村健が環境アドバイザー・マネージャーとして入所している。 内閣総理大臣在任中の1997年に発生したペルー早稲田大学探検部員殺害事件の報に接して、1997年12月28日に記者団の前で橋本龍太郎は「ペルーはMRTAだけでなくほかにもテロ組織があって、当然、政府軍との間でピリピリしている。十分事前に準備して最小限にとどめる必要がある。十分事前に準備をできていたのか、冒険好きの僕からみると疑問に思う」と述べた。ただし、実際に殺害したのはペルーの正規軍兵士で、金銭目当ての犯行だった。橋本の発言に対し、早稲田大学探検部OBの船戸与一が厳しく反論し、探検部OB会有志47人の連名で、「内閣総理大臣・橋本龍太郎にたいする糾弾文」(原文ママ)を1998年1月26日発売の『週刊ポスト』183ページに意見広告として掲載した。
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登山家として
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長野県大町市に拠点を構えていた百瀬慎太郎(歌人、大町山案内人組合設立者)、赤沼千尋(燕山荘経営者)らと親交を深め、1923年(大正12年)から翌年にかけて積雪期の北アルプス行を次々と成功させた。しかしながら、その登山は、後述する映画を撮影しつつ行われたこと。単一峰を目指す登山スタイルが主流であった当時、複数の峰を縦走するスタイルを採ったこと、さらには事前準備の段階で3軒の山小屋を多額の費用で建設し、多くの有名案内人を雇用して登山隊を編成していたことなど当時の登山の常識を覆すものばかりであり、多くの人達から反感を買う余地は多分にあった。 加えて、山行を行っていた1923年(大正12年)1月には、当時の日本登山界のリーダーである槇有恒、板倉勝宣、三田幸夫らが冬の立山で遭難し、板倉が死亡する事故があった。時期的に当時の登山界は、無名であった伊藤らの冬山の実績を手放しに讃える状況にはなく、「金にあかした大名登山」として埒外に無視せざるをえなかった。 その後も伊藤らの成果や業績は、登山界から黙殺され続けた。山行約10年後の1933年(昭和8年)、『積雪期登山』を著作した登山家の藤田信道は、伊藤の功績について「当時のスキー・アルピニスト達は、好感を以って迎えなかった。」と記述している。
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登山家として
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旧制第八高等学校、名古屋帝大の山岳部で活動、穂高山域の岩場の初登攀に挑戦。1947年7月、「登攀不可能」と登山界で怖れられていた上高地の奥の横尾谷に高さ約600メートル、垂直に近くそそり立つ穂高・屏風岩の中央カンテ(岩壁突出部)の初登攀に成功した。 この初登攀は教壇に立ち、自ら山岳部長をつとめる旧制の三重県立神戸(かんべ)中学校(現・三重県立神戸高等学校)の山岳部員ら2名と共に行われた。現代のような登攀器具がない時代だったため、投げ縄を用いて挑戦した。初登攀を果たした後、「中学生ら未成年者を生命の危険にさらした」「岩登りの規範にない投げ縄を使った」の批判が一部から出た。しかし、正当な初登攀と認知された。 また、「登攀は登山靴でなければならないと言われていたが、登山靴が手に入らない(時代だった)ため、地下足袋を履いた岩登りであった」と自ら明らかにした。屏風岩への挑戦の動機は、「この岩壁を外国人登山家に征服されたら、日本の登山界の不名誉となる」であり、その成功は「正面コース遂に落つ」と報じられ(1947年8月3日朝日新聞)、第二次大戦後の沈滞していた日本登山界に驚きをもたらた。 屏風岩登攀に先立つ1946年3月、三重県鈴鹿市に旧制・神戸中学山岳部の卒業生らを中心とした民間の山岳会「岩稜会」をつくり会長となり、鈴鹿山系の御在所岳・藤内壁(三重県)などで岩壁登攀の訓練を行う。会員の希望などから会の活動を穂高山域の未踏岩壁、未踏ルートに求める先鋭的登山に定めて、戦前と戦後の価値観の断絶、落差の大きさに方向性を見失いがちだった敗戦後の青少年たちを山の魅力へと導いた。
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登山家として
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日本アルプスの研究計画を立て、秩父宮、澄宮、朝香宮、竹田宮の登山の案内説明にあたっている。白馬岳に何度も登頂するなど登山に見識が高く、地域山岳会設立の機運が高まると組織化に向けて尽力。1919年に信濃山岳会が発足した際には初代会長に就任している。白馬岳に登る際の定宿は、松沢貞逸が経営するヤマキ旅館であり、松沢に日本初の山小屋経営を勧めた可能性を有する人物の一人である。1926年に松沢が若くして交通事故により死去した際には、葬儀に駆けつけて弔辞を述べている。
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