登山家としてとは? わかりやすく解説

登山家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:57 UTC 版)

橋本龍太郎」の記事における「登山家として」の解説

橋本龍太郎日本山岳会会員でもあり、日本山岳ガイド協会会長長きにわたり務めた1973年第2次RCCエベレスト南壁(現・南西壁)の遠征隊の総隊長務めたこの他にも、多く海外遠征登山隊の総隊長就任したり、あるいは総指揮担当した生前、「七十歳になったら、もう一度エベレスト登りたい。君たちも夢を大事にして追いかけてほしい」と少年たち語っていた。 登山家野口健とも親しかった2000年エベレスト清掃登山行っていた野口健は、12年前に同じく登頂果たした橋本隊長JPNテレビ登山隊(日中ネパール合同隊)が置いていった酸素ボンベ発見し帰国橋本議員会館事務所訪れて酸素ボンベ届けた当初橋本龍太郎野口を失礼な人間だと感じたが、これが切っ掛け2人親しくなり、野口橋本父親様に慕っていたという。2006年正月野口橋本から「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け。」と橋本愛用のピッケル渡されたという。山をこよなく愛したことから、青山墓地にある一家の墓とは別にエベレストを望むネパールのタンポチェ慰霊碑がある。野口ヒマラヤ登山の度に訪れている。慰霊碑2007年完成し同年3月30日に、日本からの関係者出席して式典営まれた。 橋本との縁で橋本没後野口事務所には橋本龍太郎当時公設秘書だった藤村健が環境アドバイザー・マネージャーとして入所している。 内閣総理大臣在任中1997年発生したペルー早稲田大学探検部員殺害事件の報に接して1997年12月28日記者団の前で橋本龍太郎は「ペルーMRTAだけでなくほかにもテロ組織があって、当然、政府軍との間でピリピリしている。十分事前に準備して最小限とどめる必要がある。十分事前に準備をできていたのか、冒険好きの僕からみると疑問に思う」と述べた。ただし、実際に殺害したのはペルー正規軍兵士で、金銭目当て犯行だった。橋本発言対し早稲田大学探検部OB船戸与一厳しく反論し探検部OB会有志47人の連名で、「内閣総理大臣橋本龍太郎にたいする糾弾文」(原文ママ)を1998年1月26日発売の『週刊ポスト183ページ意見広告として掲載した

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登山家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 04:14 UTC 版)

伊藤孝一」の記事における「登山家として」の解説

長野県大町市拠点構えていた百瀬慎太郎歌人大町山案内人組合設立者)、赤沼千尋燕山荘経営者)らと親交深め1923年大正12年)から翌年にかけて積雪期の北アルプス行を次々と成功させた。しかしながら、その登山は、後述する映画撮影しつつ行われたこと。単一峰を目指す登山スタイル主流であった当時複数の峰を縦走するスタイルを採ったこと、さらには事前準備段階で3軒の山小屋多額の費用建設し多くの有名案内人雇用して登山隊を編成していたことなど当時登山常識覆すものばかりであり、多くの人達から反感を買う余地多分にあった。 加えて山行行っていた1923年大正12年1月には、当時日本登山界のリーダーである槇有恒板倉勝宣三田幸夫らが冬の立山遭難し板倉死亡する事故があった。時期的に当時登山界は、無名であった伊藤らの冬山実績手放し讃える状況にはなく、「金にあかした大名登山」として埒外無視せざるをえなかった。 その後伊藤らの成果業績は、登山界から黙殺され続けた山行10年後の1933年昭和8年)、『積雪登山』を著作した登山家藤田信道は、伊藤功績について「当時のスキー・アルピニスト達は、好感以って迎えなかった。」と記述している。

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登山家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 07:33 UTC 版)

石岡繁雄」の記事における「登山家として」の解説

旧制第八高等学校名古屋帝大山岳部活動穂高山域の岩場初登攀挑戦1947年7月、「登攀不可能」と登山界で怖れられていた上高地の奥の横尾谷に高さ約600メートル垂直に近くそそり立つ穂高屏風岩中央カンテ岩壁突出部)の初登攀成功した。 この初登攀教壇に立ち、自ら山岳部長をつとめる旧制三重県立神戸(かんべ)中学校(現・三重県立神戸高等学校)の山岳部員ら2名と共に行われた現代のような登攀器具がない時代だったため、投げ縄用いて挑戦した初登攀果たした後、「中学生未成年者生命危険にさらした」「岩登り規範にない投げ縄使った」の批判一部から出た。しかし、正当な初登攀認知された。 また、登攀登山靴なければならないと言われていたが、登山靴手に入らない時代だった)ため、地下足袋を履いた岩登りであった」と自ら明らかにした。屏風岩への挑戦動機は、「この岩壁外国人登山家征服されたら、日本登山界の不名誉となる」であり、その成功は「正面コース遂に落つ」と報じられ1947年8月3日朝日新聞)、第二次大戦後の沈滞していた日本登山界に驚きをもたらた。 屏風岩登攀先立つ1946年3月三重県鈴鹿市旧制神戸中学山岳部卒業生らを中心とした民間山岳会岩稜会」をつくり会長となり、鈴鹿山系御在所岳藤内壁三重県)などで岩壁登攀訓練を行う。会員希望などから会の活動穂高山域の未踏岩壁未踏ルート求め先鋭的登山定めて戦前戦後価値観断絶落差大きさ方向性を見失いがちだった敗戦後青少年たちを山の魅力へと導いた

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登山家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 19:57 UTC 版)

矢澤米三郎」の記事における「登山家として」の解説

日本アルプス研究計画立て秩父宮澄宮朝香宮竹田宮登山案内説明にあたっている。白馬岳何度も登頂するなど登山見識高く地域山岳会設立機運が高まると組織化向けて尽力1919年信濃山岳会発足した際には初代会長就任している。白馬岳登る際の定宿は、松沢貞逸経営するヤマキ旅館であり、松沢日本初山小屋経営勧めた可能性有する人物の一人である。1926年松沢若くして交通事故により死去した際には、葬儀駆けつけ弔辞述べている。

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