登山史・登攀史とは? わかりやすく解説

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登山史・登攀史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 02:18 UTC 版)

北岳」の記事における「登山史・登攀史」の解説

1871年明治4年)に、巨摩郡芦安村南アルプス市安)の修験者である名取直江が、広河原から白根御池経由して登頂し里宮中宮奥宮造り開山したとされる。これ以後北岳登頂多く登山家によってなされてゆく。 1902年明治35年8月23日には、イギリス人宣教師ウォルター・ウェストン登頂し1904年明治37年)に日本再訪問した際に再登頂した。この時、間ノ岳仙丈ヶ岳にも登頂した1905年明治38年)には伊達九郎らが、白根御池から稜線ルートにて登頂日本山岳会初代会長である小島烏水1908年明治41年7月登頂し山頂寛政7年1795年)の年号彫られ石祠確認した積雪期に初登頂成されたのは1925年大正14年3月22日のことである。 当時京都三高山岳部であった西堀栄三郎桑原武夫ら4人が成し遂げた北岳バットレス登攀動き積雪期初登頂から少しして見られるうになる初登攀1927年昭和2年)の7月18日京都大学高橋健治ら4人が第5尾根より無雪期初め登攀した。初登攀から7年後1934年昭和9年12月27日には、立教大学浜野正男、榎本忠亮が東北尾根より積雪期の初登攀をした。7つ岩稜の中で最後まで残されたのが積雪期中央稜である。この登攀が行われたのは戦後になってからで、1958年昭和33年)に奥山章芳野満彦らが積雪期初登攀成した中央稜の初登攀松濤明によって1942年7月30日成された。松濤はこの時20歳飛騨山脈南部槍ヶ岳北鎌尾根にて死亡する7年前だった。 1962年昭和37年)、野呂川林道(後の南アルプススーパー林道一部開通により、山麓広河原までの往来がしやすくなった。登山客が増加するきっかけとなった登頂目指し活発に登山が行われた明治大正時代1924年大正13年)に登山者のための山小屋造られた。それから54年後の1978年昭和53年7月には、山梨県北岳山荘建造した登山趣味とする今上天皇国内多くの山へ登っているが、北岳には立太子前の1987年昭和62年8月11日登頂した白峰三山縦走の際にこれを果たした。また徳仁親王当時)としてこの年7月日本山岳会入会した

※この「登山史・登攀史」の解説は、「北岳」の解説の一部です。
「登山史・登攀史」を含む「北岳」の記事については、「北岳」の概要を参照ください。

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