三田幸夫とは? わかりやすく解説

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三田幸夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/29 14:10 UTC 版)

三田 幸夫(みた ゆきお、1900年3月31日 - 1991年2月11日)は、大正から昭和にかけての登山家横浜市出身。「山のガキ大将」という異名があった[1]

慶應義塾大学経済学部在籍中は山岳部に属し、槇有恒の指導の下、大島亮介と共に中心的なメンバーとなった[1][2][3]1923年1月、立山(雄山)へ槇有恒、板倉勝宣らとスキー登山を敢行するが、松尾峠にて遭難してしまう。三田は1人救援を求めて立山温泉への下山を強行するも、疲労によって幻影を見るほどであったとされ、結果的に板倉の死を看取った槇に温泉手前で追いつかれるという苦い経験をしている[2][4]

1924年の大学卒業後は実業界に入って、後に岩井産業シンガポール支店長や万邦産業取締役、三和興業常務などを歴任した。仕事による海外赴任が登山活動に資することが多く、後に海外登山のパイオニアとして評価されることになった[2][3]

1925年、槇有恒・早川種三らとともにアルバータ山への世界初登頂を果たす[1][2][3]インド赴任中の1931年クル渓谷英語版を探索する[1][2]。また、現地で各国登山隊のヒマラヤ山脈登山への動きを知り、日本の登山隊の出遅れを憂いて祖国の人々に訴えている[1]。なお、三田自身も1952年の第1次マナスル遠征隊隊長を務めているが、山頂目前で登頂断念を余儀なくされたものの、その後の日本人登山家によるヒマラヤ登山の動きに大きな影響を与えた[1][2][3]

1968年には日本山岳会11代会長を務めた[1][2][3]

著作に『わが登高行』・『山なみはるかに』・『山のガキ大将』などがある[1][2][3]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 近藤信行『現代日本人物事典』「三田幸夫」P.1010.
  2. ^ a b c d e f g h 山崎安治『岳人事典』「三田幸夫」P.170.
  3. ^ a b c d e f 『20世紀日本人物事典』「三田幸夫」P.2418.
  4. ^ 春日俊吉「友の遺体を腕に(立山松尾峠)」『山の遭難譜』二見書房、1973年、P54-65.

参考文献

  • 山崎安治「三田幸夫」徳久球雄 編『岳人事典』(東京新聞出版、1983年) ISBN 978-4-808-30148-4 P170.
  • 近藤信行「三田幸夫」『現代日本人物事典』(旺文社、1986年) ISBN 978-4-010-71401-0 P1010. 
  • 「三田幸夫」『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ 2004年) ISBN 978-4-816-91853-7 P2418.

関連項目

  • 堀田弥一 - 日本初(戦前唯一)のヒマラヤ遠征登山隊隊長を務めた。
学職
先代
松方三郎
第10代:1962年 - 1968年
日本山岳会 会長
第11代:1968年 - 1973年
次代
今西錦司
第12代:1973年 - 1977年



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