日本への伝来と潮流
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日本におけるスキーの伝来は明治時代後期の1890年代からだが、1911年(明治44年)1月12日に新潟県中頸城郡高田町(現・上越市)において、オーストリア陸軍(英語版)少佐(オーストリア=ハンガリー帝国時代)のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ(テオドール・エドレル・フォン・レルヒとも)が陸軍第13師団に着任し、歩兵第58連隊の営庭を利用して堀内文次郎連隊長や鶴見宜信大尉らスキー専修員を含む軍人に技術を伝授したことが、日本における本格的なスキー普及の第一歩とされ、かつ、日本におけるスキー発祥と言われている。この史実にちなんで、全日本スキー連盟では2003年に1月12日を「スキーの日」と制定した。 レルヒは日本陸軍の長岡外史中将が率いる第13師団の御用商人でもあり、高田町を本拠にする実業家である五十嵐彌五八(後に辰豊と改名)の経営する旅館「高陽館」に寄宿して高田歩兵第58連隊に着任、その翌年の1912年には北海道旭川第7師団に着任した。 レルヒ以前、1908年に札幌農学校のスイス人講師が2本杖のスキーを滑ってみせたこと(詳細は三角山を参照のこと)、また1916年に欧州から帰国した遠藤吉三郎がノルウェー式の2本杖スキーを普及させたことから北海道では2本杖が主流となった。また、1923年には第一回全日本スキー選手権大会が開催され、2本杖が1本杖を成績で圧倒したことから、全国的にも2本杖が主流となっていった。 スキーは登山用具としても注目され、1923年1月には、当時の日本登山界のリーダーである槇有恒、板倉勝宣、三田幸夫が冬の立山登山に利用した(板倉は帰路遭難死)。 1924年のシャモニーオリンピック開催と国際スキー連盟誕生を受け、日本では翌年の1925年に全日本スキー連盟が創設された。 1940年と1941年に相次いで、「今日のスキー」と「スキー・フランセ」がそれぞれ邦訳出版され、それぞれの技術が紹介されるが(上記参照)、日本のスキー関係者の間では「外傾技術」に共鳴する人が多く、1947年(昭和22年)には外傾技術を中心とした全日本スキー連盟のテキスト「一般スキー術」が出版された。しかし当時でも少なからずローテーション技術を主張する声があり、1954年(昭和29年)にピエール・ギョーとアンリ・オレイエが来日して全国各地でフランス・スキー技術の指導が行われた事でローテーション技術と外傾技術の議論が活発に行われた。 1958年(昭和33年)に「オーストリア・スキー教程」が日本でも出版され、その直後にはオーストリア職業スキー教師連盟のルディ・マットが来日し、全国各地でオーストリアスキー技術が紹介・指導された事で日本のスキー技術はオーストリア・スキーに傾倒していき、1959年(昭和34年)にはバインシュピール技術が基となる「SAJスキーテキスト」が発刊された。その後の1960年(昭和35年)にルディ・マットが再来日したほか、1963年(昭和38年)にはオーストリア国立スキー学校総責任者のシュテファン・クルッケンハウザー教授とデモンストレーターのフランツ・フルトナー他2名が来日して、全国各地で講演・映画上映・実地指導を行い、これを受けてバインシュピール技術が日本のスキー界に根付いていった。 1965年(昭和40年)には「第7回インタースキー」(オーストリア・バドガシュタイン)に、日本から初めて10名(うちデモンストレーター5名)の代表団が送り込まれた。以降、日本は毎回参加し、1979年(昭和54年)にはアジア初となる日本・蔵王で「第11回インタースキー」が、1995年(平成7年)には日本・野沢温泉で「第15回インタースキー」が開催された。 その他 アルペンスキーではないが、北海道・サハリンの先住民アイヌにおいては、雪中かんじきとして2種の履物ヌソオフトとストーが見られる。ヌソは犬ぞりの意味で御者が身に着ける幅が広いスキーのような形状の物で、ストーは当時の新聞では露式寒敷とされていたロシアやサハリンから伝来したカンジキ式スキーである。こういった物が日本には伝来していたが、日本には20世紀に至るまでスキーは定着していなかった。
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