日本への併合と朝鮮王朝の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)
「李氏朝鮮」の記事における「日本への併合と朝鮮王朝の滅亡」の解説
1904年になると、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。1905年には第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、この主張は国際社会に拒絶された。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。 1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、 現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国進出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。 加えて財政支出の増大を招くことからも併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。ということであった。 1909年10月26日に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が、一進会によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。(韓国人が望んでいたのはあくまで、対等合併であり、日韓併合の実情とは異なるが、露西亜・清からの侵略を防いだのもまた、事実であり植民地にならなかっただけマシであった)日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位(王公族)に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われなかった。 日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、清から援助を受けた両班を中心とする元朝鮮支配勢力は、統治による両班制度の破壊(=平等社会)に対しての不平不満のため、三・一独立運動と呼ばれる反日蜂起を起こすが、朝鮮総督府当局により鎮圧される。
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