日本への出稼ぎ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
ブラジルは、1970年代前半に「ブラジルの奇跡」と言われる、外国からの借金導入をもとにした好景気に沸いた。しかし1970年代後半以降には激しいインフレーションに見舞われるなど、経済的苦境が続くこととなる。その後1980年代にかけて世界有数の借金大国になったブラジルの経済は破綻し、月間100%を超えるインフレの前に軍事政権は権力を投げ出さざるを得なかった。 これに対して日本は、高度経済成長を達成した後も安定した経済状況にあったために、移民の流れは逆転した。特に1990年に日本の出入国管理法が改正され、3世までの日系ブラジル人とその家族を無制限に受入ることを始めると、日本での高収入に着目した、もしくはブラジルで職を失った多数の日系ブラジル人が日本へ出稼ぎにくるようになり、1990年代にはヴァリグ・ブラジル航空やVASP航空、日本航空の東京や大阪、名古屋行きの直行便は、出稼ぎに来るブラジル人で混み合うようになった。 出稼ぎに来た日系ブラジル人とその家族の殆どは工場労働者などのブルーカラーが中心で、専門職や技術職の者は少ないこともあり、群馬県太田市、群馬県邑楽郡大泉町、栃木県小山市、茨城県常総市、愛知県豊田市、豊橋市、静岡県浜松市、岐阜県美濃加茂市、可児市、大垣市などの期間労働者(期間工)を多数雇用する工場地帯に多い。夜勤など日本人労働者が嫌った仕事を率先して引き受けた。 彼らは2年契約で出稼ぎが目的で日本に渡航したが、その後多くは結果的に日本定住を望み、永住権、やがては日本国籍を取得した。ブラジルの経済が再び活況を呈している現在でも、日本に移住したブラジル人は日本に定住し続け、約35万人以上とされる。これには日本国籍を取得したブラジル人は含まれない。日本人のブラジルへの移民が100年間で13万人であったので、ブラジルから日本への移民は、日本からブラジルへの移民よりもはるかに多い。 またこれに伴いブラジル系日本人の数も増加することとなり、日本に住む日系ブラジル人やブラジル系日本人向けの新聞や雑誌が発行された他、ブラジル人を主な顧客としたスーパーマーケットや各種商店が上記の地域を中心に多く営業している。なお、日系ブラジル人による日本への出稼ぎ者の増加に伴い、「出稼ぎ」という言葉は「Dekassegui」と表記され、ポルトガル語でも通用するほどになった。今や、日系在伯移民社会の時代は終了し、ブラジル系在日移民社会の時代となった。
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日本への出稼ぎ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 13:25 UTC 版)
1980年代後半になると、日本のバブル景気を背景に、多くの移住地の住民たちが日本への就労、「出稼ぎ」にでる現象が顕著となった。初期の出稼ぎに来ていた日系ボリビア人は、日本国籍を有していた移民一世の世代が中心であった。多くは一家の主など働き盛りの男性が家族を残して単身で、ボリビア移住前の血縁を頼って来日していた。この時の一世の出稼ぎ者の多くは、1984年にボリビアで起きたハイパーインフレーションにより、生活に行き詰まった移民者たちであった。 続いて、移民二世や三世が日本への出稼ぎに向かった。彼らの場合は、経済的な事情というよりも、次男、三男などの独立資金の獲得や営農拡張のための資金のためという面が強かった。また送り出す親の立場も、日本においての見聞を広めさせたいという考えが濃厚にあった。 横浜市の鶴見は、戦前より沖縄県出身者が多く居住している地域であった。1980年代初頭より、沖縄県出身の日系ブラジル人が鶴見に出稼ぎにきていたが、これに混ざってオキナワ移住地出身者がボリビアより次々と出稼ぎにやってくるようになった。鶴見でオキナワ移住者の出稼ぎ者達により、独自のコミュニティーが発生した。技術を覚え、人脈ができると、独立して中小規模の電気工事業や人材派遣業を営む者が現れた。 また、移民二世や三世の出稼ぎによって、彼らの日本への理解が深まり、移民一世の間に相互理解を生むことにもつながったという指摘もなされている。
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