日本への再入国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 21:12 UTC 版)
「ジョアン・マテウス・アダミ」の記事における「日本への再入国」の解説
1618年7月、アダミは他の日本人修道士らとともに九州の天草に再上陸し、1619年まで大矢野(現・上天草市)に留まっていたが、1620年、九州での迫害が厳しくなり、日本の東北地方である奥州へ向かい、そこで再会した山とともに宣教活動に従事した。アダミは会津若松近くの猪苗代のセミナリオに在住していたが、猪苗代を知行する岡越後(定俊)は熱心なキリシタンで、キリシタン大名である蒲生氏郷の会津入封に従い九州から移って来た。ローマ法王パウロ5世が日本の信徒へ送った激励の教書を、1620年に司祭であるジョアン・バプチスタ・ポルロが会津にも届け、翌年に奥州の主だった17名のキリシタンがローマ法王へ奉答文を送ったが、その中には会津の柴山パウロ長左衛門、大森ジョアン喜右衛門、中牧主水、坂本三太夫の署名が含まれる。
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