最後の装甲艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 05:59 UTC 版)
「ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の記事における「最後の装甲艦」の解説
1920年5月11日には南ロシア軍はP・N・ヴラーンゲリ総司令官の下ロシア軍に再編され、ゲオルギー・ポベドノーセツはその海軍に編入された。 この年の夏にはもう白軍の国外亡命への準備が急がれるようになった。同年10月26日の時点でゲオルギー・ポベドノーセツはほかの艦隊主力とともにアク=メチェーチにあり、国外への出航に備えていた。 10月17日には、サーブリンが肝癌で死去したのに伴い、M・A・ケードロフ海軍中将が艦隊司令官に就任した。 11月14日には、ヴラーンゲリ総司令官は麾下の軍部隊と将兵の家族、一般市民などを連れてセヴァストーポリを撤退し、艦隊とともにイスタンブールへ向かった。当時、ゲオルギー・ポベドノーセツは元戦列艦(бывший линкор)と公式文書に記載されていたが、その技術的状態は満足すべきものであったので、艦はヴラーンゲリの艦隊に加わってクリミアを後にした。状態の悪い艦はクリミアへ打ち捨てられた。 11月21日には、イスタンブールにてロシア艦隊が編成された。一部の艦はここで放棄されたが、ゲオルギー・ポベドノーセツは艦隊に留まった。同日付で、ゲオルギー・ポベドノーセツ艦長にはP・P・サーヴィチ海軍中佐が任官した。12月3日には黒海艦隊司令部はロシア艦隊司令部に改編され、引き続きケードロフ海軍中将がゲオルギー・ポベドノーセツに司令部を置いた。ロシア艦隊はフランス保護領チュニジアへ向かったが、12月29日、ビゼルトにてフランス当局によって抑留された。1921年1月3日付けでケードロフは司令官を退き、かわってM・A・ベーレンス海軍少将が任官した。 その後、ロシア艦隊の構成艦船は、資材の不足から次第に数を減らしていった。最終的に、1922年末にはすべての艦船が退役を余儀なくされ、全乗員が陸に上がることになった。ゲオルギー・ポベドノーセツのような旧式艦は難民のために残され、彼らの住居として利用された。士官の家族は、共同宿舎として提供された元戦列艦ゲオルギー・ポベドノーセツに居住した。ゲオルギー・ポベドノーセツからはボイラーやマスト、旗が撤去され、ビゼルト港の防波堤に停泊した。その生活のため、上層甲板には小屋が、艦尾艦橋左ウイング上には貯水タンクが設置された。1921年3月25日付けで、共同宿舎艦艦長にはM・S・ポドゥーシュキン海軍少将が任官した。ポドゥーシュキンは、1923年11月までその任に留まった。 居住設備以外にも、艦には生活のための多くの施設が開設された。まず、ロシア帝国の伝統を引く海軍中等学校が開かれた。艦内には図書館も開設され、1924年10月までK・N・オグロブリーンスキイ陸軍中将が司書を務めていた。小さな病院も設置された。艦上にはまた、イオアニーキイ・ポレターエフ司祭の下でビゼルトでは最初のロシア正教会の教会活動のための特別の施設が開設された。 フランスが白軍を見捨ててソ連を承認することになった関係で、1924年10月30日にロシア艦隊は解散した。この日、ゲオルギー・ポベドノーセツでもアンドレイ旗の降納式が物悲しい雰囲気の中執り行われた。こうして、ゲオルギー・ポベドノーセツは歴史上最後にアンドレイ旗を降ろした装甲艦となった。艦上からは教会施設が撤去され、ビゼルト市内に移された。 後年、艦からは白軍関係者の住居が取り払われ、難民は追放された。 ロシア艦隊の解散を受けて、艦はフランス政府からソ連代表団へ引き渡された。しかし、ソ連は資金難と修理施設の不足を理由に艦を受領しなかった。1920年代中盤の時点で完全に旧式化していたゲオルギー・ポベドノーセツは「ルドメタルトルク」によってフランス企業へ売却され、1930年代初めにビゼルトにて解体された。 一方、祖国を追われた白軍関係者や一般市民らは、ビゼルトに新しいロシア正教の教会を開設し、亡命者たちの犠牲を慰めようとした。この計画は1935年に始められ、1936年にはフランス当局の了承を得た。1938年9月10日、ビゼルトに新しいアレクサンドル・ネフスキー教会が開かれた。その中には、ゲオルギー・ポベドノーセツを含むロシア艦隊全艦船の名前が記された大理石板が嵌め込まれた。
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