7月15-17日
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「バーミンガム暴動 (1791年)」の記事における「7月15-17日」の解説
アイルズフォード伯爵 (Earl of Aylesford) は14日夜の暴動に歯止めをかけようとしたが、他の判事の協力を得たにも関わらず、群集を制御することができなかった。15日には群集は地元の監獄から囚人らを解放した。看守であったトーマス・ウッドブリッジ (Thomas Woodbridge) は暴徒の制圧のため数百人規模で協力を依頼していたが、その多くが自ら暴徒に加わった。新たに任命された保安官が現場に到着すると、群集はすぐに彼らを襲撃し、1名が殺された。地方判事と警察当局は暴徒の制圧のための手を打たず、17日に軍が到着するまで暴動法 (Riot Act) も施行しなかった。その間、Bordesley Parkにある銀行家ジョン・テイラー (John Taylor) の邸宅も焼き払わされた。 16日にはジョゼフ・ジュークス (Joseph Jukes) 、ジョン・コーツ (John Coates) 、ジョン・ホブソン (John Hobson) 、トーマス・ホークス (Thomas Hawkes) 、ジョン・ハーウッド (John Harwood) らの自宅が襲撃・放火された。バーミンガム南部のキングズ・ヒース (Kings Heath) にある非国教徒系の教会であるバプティスト・ミーティングも破壊された。ユニテリアン商人のウィリアム・ラッセル (William Russell) やウィリアム・ハットン (William Hutton) は抵抗したが、彼らの雇用人が暴徒と闘うことを拒絶したため、やはり自宅を破壊された。ハットンは後に当時の出来事を次のように回想している。 私は疫病のように忌避された。悲しみの波が私の全身を襲い、数多の力で私を打ちのめした。悲しみは次々と重苦しくなっていった。子供たちは困憊していた。妻は長い苦しみの後、死を覚悟してまで私の元を離れる決意をした。私自身は四阿で水を1杯乞うような、悲しむべき困窮を強いられるまでに落ちぶれた。15日の朝はとても裕福だったが、その晩に破滅したのだ!。 暴徒がモーズリー(Moseley)にあるジョン・テイラー (John Taylor) の自宅 (Moseley Hall) に到着すると、彼らはそれを燃やす前に、全ての家具とその時の住人であったカーハンプトン貴婦人 (Dowager Lady Carhampton、ジョージ4世の親戚であった)を家から追い出す配慮を見せた。暴徒のターゲットはとりわけ国王の政策に反対する人間であったり、国教会に順応せず国家統制に抵抗する人間であり、治安判事ジョージ・ラッセル (George Russell) 、ニュー・ミーティングの牧師サミュエル・ブライス (Samuel Blyth) 、トマス・リー (Thomas Lee) といった人々が15、16日の襲撃の対象となった。ルナー・ソサエティのメンバーで製造業者でクエーカー教徒であるサミュエル・ゴルトン・Jr. (Samuel Galton) だけは、暴徒を酒と金で買収して自宅を守った。 16日午後2時頃には暴徒はバーミンガム南部のキングズ・ノートン (Kings Norton) とキングズウッド・チャペル (Kingswood Chapel) を目指した。ある見積もりでは暴徒の1つの集団には250から300人がいた。そこでも農場、邸宅、教会の焼き払いが実行された。この頃になるとバーミンガムは経済活動がストップしてしまった。 当時の記録によると、暴徒の最後の襲撃は17日の午後8時に起こった。およそ30名の筋金入りの暴徒が、国教徒でプリーストリーやキアとともにルナー・ソサエティの会合に参加していたウィリアム・ウィザリングの自宅を襲った。しかしウィザリングは予め護衛を雇っており、家を暴徒から守ることができた。17、18日に軍隊が到着して秩序が回復されると、ほとんどの暴徒は解散させられた。ただし、群集はウォリックシャーのアルセスター (Alcester) やウスターシャーのブロムズグローブ (Bromsgrove) でも暴動や破壊行為を起こしたという噂も立っていた。 同じルナー・ソサエティのメンバーであるマシュー・ボールトンとワットは、共同経営していたソーホー工場を守るため従業員に武装させた 結果的に、4つの非国教徒の教会が激しい損傷または焼失の目に会い、27の家屋が襲撃され、その他多くが略奪や放火の被害を受けた。暴動は14日のバスティーユ襲撃祝賀会に参加した人々への攻撃として始まったものだったが、その後ルナー・ソサエティのメンバーやあらゆる種類の非国教徒らにターゲットが拡大して騒動が大きくなった。
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