7月25-27日 主攻勢および突破
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「コブラ作戦」の記事における「7月25-27日 主攻勢および突破」の解説
1日の延期後、コブラ作戦は7月25日午前9時38分、約600機の戦闘爆撃機によるサン=ロー付近にいた幅300ヤード (270 m)の敵陣地と砲兵への爆撃で開始された。1時間後、アメリカ第8空軍の1,800機の重爆撃機がサン=ロー・ペリエ街道の6,000 by 2,200ヤード (5,500 m × 2,000 m)の地域に絨毯爆撃を行い、中爆撃機が第3波としてこれに続いた。約3,000機のアメリカ軍機が前線の狭い地域に絨毯爆撃を行い、装甲教導師団がその攻撃にさらされた。しかし、またもや損害はドイツ軍だけではなかった。ブラッドレーは、誤爆のリスクを最小限にするために、太陽に背を向け、かつサン=ロー・ペリエ街道と並行するように、爆撃機には東からの目標接近を特に要請していたが、ほとんどの飛行機は北から前線へ直角に接近した。ところが、ブラッドレーは、戦線に並行する目標接近は彼が設定した時間と場所の制約の中では不可能であるという、重爆撃隊の指揮官の説明をどうも誤って理解していたようであった。加えて、並行接近では、土埃と煙による方向誤差や目標視認不良のため、全ての爆弾を必ずドイツ軍戦線の後方に落とすことを保証できなかった。発煙筒で自らの位置を知らせようとしたアメリカ軍部隊の努力にかかわらず、第8空軍の誤爆により111名が死亡し、490名が負傷した。死者の中には、ブラッドレーの友人でウエストポイントの同窓であった、レスリー・マクネア(英語版)中将(ヨーロッパ作戦戦域における最高位の戦死者)もいた。 午前11時、歩兵が行動を開始し、弾痕の間を前進し、ドイツ軍の最前線だった地点を越えた。激しい抵抗は予想されなかったが、兵士約2,200名と装甲車両45両からなるフリッツ・バイエルライン中将の装甲教導師団が再編成し、前進するアメリカ軍を迎え撃つ準備をしていた。そして装甲教導師団の西では第5降下猟兵師団が爆撃を逃れ、ほとんど無傷であった。コリンズの第7軍団は、爆撃による制圧を期待していた敵からの激しい砲撃を受け完全に意気消沈した。アメリカ軍のいくつかの部隊は、ドイツ軍の歩兵と88mm砲に支援された少数の戦車が保持する陣地に対する戦闘に手間取り、第7軍団はその日、2,200ヤード (2,000 m)しか前進することができなかった。初日の結果は失望するものであったが、コリンズは激励する理由を見出していた。ドイツ軍は陣地を猛烈に守備していたが、それを継続できるようには見えず、側面包囲や迂回移動の影響を受けやすい状況にあった。アメリカ軍に攻勢の予兆があったにも関わらず、カーン周辺でのイギリス・カナダ軍の行動により、ドイツ軍は真の脅威はそこにあると信じ込み、行動可能な部隊を張り付けて用意周到に守備陣地を準備し続けた。グッドウッド作戦とアトランティック作戦があったものの、それはコブラ作戦に備えたものではなかった。 7月26日朝、アメリカ第2機甲師団(英語版)とベテランの第1歩兵師団が、翌日にコブラ作戦の最初の目標の一つであるル・メニル=エルマン(英語版)の北の交差点に到達するため、予定通りに攻撃を開始した。同日、トロイ・ミドルトン(英語版)中将の第8軍団も、第8歩兵師団(英語版)と第90歩兵師団を先頭に戦闘に加わった。前線に広がる氾濫地帯と湿地を通過する前進路があるにもかかわらず、両師団は重要地点の確保に失敗し、序盤は第1軍を失望させた。しかし翌朝夜が明けると、ドイツ軍は第8軍団の進撃を遅らせる広大な地雷原を残したのみで、左翼の崩壊に伴い退却していたことが判明した。7月27日昼までには、第7軍団の第9歩兵師団もドイツ軍の組織的抵抗を排除し、迅速に進撃していた。
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