シエーナ共和国とは? わかりやすく解説

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シエーナ共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/30 01:24 UTC 版)

シエーナ共和国
Repubblica di Siena (イタリア語)
Respublica Senensis (ラテン語)
1125年 - 1555年
(国旗) (国章)
国の標語: Libertas(ラテン語)
自由

イタリアの地図(1494年)
   シエーナ共和国
言語 イタリア語
ラテン語
首都 シエーナ
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
成立 1125年
滅亡 1555年4月17日

シエーナ共和国Repubblica di Siena)は、中世イタリア半島に存在した国家である。シエーナ都市国家から興り、トスカーナ地方の覇権をフィレンツェフィレンツェ共和国およびその後身となるメディチ家の国家)と争った。

歴史

シエーナ共和国の誕生

シエーナ共和国(青)とその強い影響が及んだ地域(クリーム色)の変遷 (1125-1559)

1115年、北イタリアの大領主であったトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサが後継者なく没すると、その領域は細分化されて自治的な勢力が勃興し、都市国家群が生まれることになる。この時代、都市シエーナは、金融の一大センターとなり、また羊毛取引の重要なプレイヤーとして成長を遂げた。

12世紀初頭、貴族中心の行政機構は、市民による自治組織(コムーネ)へと変化していった。都市を治めるコンスルは長い時間を経て、多くの市民身分の者(poblani)が就任するようになった。また、防御を固めた都市の中に、郊外の封建領主たちを受け入れることにより、コムーネはその領域を拡大させた。

シエーナは当初シエーナ司教による直接支配を受けたが、12世紀の間にその統治力は衰えていった。司教はアレッツォの領土問題を巡り、都市の有力市民の協力を取り付ける代わりに、都市運営にかれらの大きな発言力を認めることを余儀なくされた。1167年、シエーナの都市共同体(コムーネ)は、司教による統治からの独立を宣言した。1179年には都市の憲章が制定されている。

シエーナとフィレンツェ

シエーナ共和国は、内部に貴族と市民党派の間の抗争を抱えつつ、通常は最大のライバルであるフィレンツェフィレンツェ共和国)と政治的に対抗する立場をとった。13世紀に展開された教皇派と皇帝派の抗争では、フィレンツェが教皇派(ゲルフ)であったのに対抗し、シエーナは主に皇帝派(ギベリン)の立場に立っていた。1260年9月4日のモンタペルティの戦い (Battle of Montapertiで、シエーナをはじめとするギベリン軍は、数に勝るフィレンツェなどのゲルフ軍を打ち破っている。

1348年黒死病の流行によりシエーナは打撃を受けている。これに加え、財政難がシエーナを苦しめた。1355年、神聖ローマ皇帝カール4世がイタリア遠征の途次シエーナに入るとシエーナの人口は増加し、従来の「ノヴェスキ (Noveschi」(九君主制)と呼ばれる9人の代表者による統治体制を改め、代表者の数は12人に増員されている。しかし、その後制度は一定せず、代表者の数は10人、11人、15人とめまぐるしく変わった。1399年、シエーナはフィレンツェに対抗するために、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティを迎え入れている。

1404年にヴィスコンティ家は追放され、10人の代表者による政府が定着した。新たな政府はナポリ王ラディズラーオ1世への対抗のためにフィレンツェと連携している。1458年、シエーナ出身のピウス2世が教皇に選出されるとピッコロミニ家 (Piccolominiをはじめとする貴族党派が政権に返り咲いたが、教皇没後は再び市民党派が政権の座に就いた。

1487年、パンドルフォ・ペトルッチ (Pandolfo Petrucciのもと、フィレンツェやナポリ王アルフォンソ2世に支援された貴族党派は政権を奪回した。ペトルッチは1512年に没するまでシエーナをよく治め、芸術と科学を保護し、チェーザレ・ボルジアから都市を防衛した。パンドルフォの死後、ペトルッチ家は内紛を繰り返し、1523年に市民党派によって追放されている。しかし政情は安定せず、皇帝カール5世はスペイン軍団にシエーナを占領させた。

シエーナ共和国の滅亡

1552年、シエーナ共和国はフランスと手を結び、スペイン兵を追放した。カール5世は、傭兵隊長ジャン・ジャコモ・メディチ (Gian Giacomo Mediciを派遣し、皇帝軍・フィレンツェ軍をもってシエーナ攻略に当たらせた。シエーナ共和国はピエトロ・ストロッツィ (Piero Strozziに防衛に当たらせるが、1554年8月のマルチアーノの戦い (Battle of Marcianoでシエーナ軍は敗北した。1555年4月17日、シエーナはスペインに降伏し、シエーナ共和国は終焉を迎えた。ただし、シエーナの共和派の700家族は、1559年までモンタルチーノを拠点として抵抗を続けている。

1556年に即位したスペイン王フェリペ2世は、メディチ家に膨大な金額を借りていた。1559年のカトー・カンブレジ条約で、スペインは借金と引き換えにシエーナをフィレンツェ公国(のちにトスカーナ大公国)に割譲した。以後、19世紀イタリア統一戦争まで、シエーナはトスカーナ大公国領となる。

脚注




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