ブカレストの戦い
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ブカレストの戦い | |
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![]() ブカレストを行軍するドイツ騎兵 |
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戦争:第一次世界大戦 | |
年月日:1916年11月25日 - 1916年12月3日 | |
場所:ブカレスト | |
結果:同盟軍の決定的勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
25万名 | 15万名 |
損害 | |
不明 | 6万名 |

ブカレストの戦い(ぶかれすとのたたかい 英: Battle of Bucharest)は、第一次世界大戦中の1916年に、ルーマニア軍とブルガリア軍・ドイツ軍との間で発生した戦い。
各戦線で敗退したルーマニア軍は首都ブカレストに後退して抵抗したが、適わず北方へと更に敗走した。首都を抑えたマッケンゼン軍は、西方でトランシルヴァニアを奪還したファルケンハイン軍と共にルーマニア軍への追撃を開始した。
背景
1916年11月27日までに、同盟国側はブカレストを攻略する重要な足掛かりを構築することに成功した。第一に、スラティナの戦いにおける勝利でルーマニア軍はオルト川の防衛線を放棄した。第二に、ドイツ軍とブルガリア軍協力のもと、ブカレスト南方のジュルジュを占領した。
首都の防衛が危ぶまれたルーマニアの政治家はコンスタンチン・プレザンを暫定的な司令官に命じた。プレザン将軍は悲惨的な状況の中、フランス軍使節のアンリ・ベルトロ将軍と共にドイツ軍を奇襲する計画人を立案した。
経過
余波
ブカレストの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 07:28 UTC 版)
一方、南部の同盟軍は直ぐに新たな攻撃には移らず、沿岸部を確保する為の慎重な準備に1ヵ月間にわたる時間をかけた。マッケンゼン将軍が次の攻撃に移ったのは10月20日のことで、彼の軍はルーマニア軍とロシア軍(ザイオンチコーフスキー将軍の1個軍団)の共同戦線を破り、10月22日に目標であったコンスタン市の占領に成功した。ルーマニア軍が後退した後、がら空きになったドブルジャの防衛はロシア軍が単独で行わねばならず、じりじりとドナウ・デルタへと後退を強いられていった。ロシア軍は士気や物資を削られ続け、戦線前方の戦力を減少させたマッケンゼンはドナウ川を渡河して直接ブカレストへ進軍する為の戦力を抽出する事ができた。マッケンゼン軍の半数近い兵士が戦線後方のスビシトフへと下がり、上陸準備を進めた。 11月23日、マッケンゼン軍の一部がドナウ川渡河に成功してブカレストへと迫った。ルーマニア軍は恐慌状態に陥り、マッケンゼン軍は非常に弱い抵抗を受けただけで速やかにブカレスト包囲へと駒を進めた。ブカレスト占領はルーマニア軍に止めの一撃となりうる事が予想されており、新たに総司令官となったコンスタンチン・プレザン元帥は全軍を動員して必死の反撃に移ろうとしていた。 計画は大胆であったが戦力不足が否めず、マッケンゼン軍の分隊を抑える事に忙殺されていたロシア軍は攻撃に反対した。12月1日、結局ルーマニア軍は作戦を強行したが、3日後にはルーマニア軍は跡形も無く駆逐されていた。ルーマニア政府はヤシ市に遷都を宣言して首都から逃亡し、12月6日に同盟軍の騎兵部隊がブカレストに入城した。一連のブカレストの戦いで150,000名以上のルーマニア兵が降伏して同盟軍の捕虜となった。 ルーマニア軍の残存戦力は幾分存在していたものの、ルーマニアの半分以上が同盟軍の占領下に置かれていた。ルーマニア軍の敗退でロシア軍に南部戦線により多くの戦力を配置せねばならず、国防上の負担を強いられた。「ルーマニア・キャンペーン」はマッケンゼンとファルケンハインによる同盟軍の鮮やかな圧勝であった。
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