ルーマニア王国の参戦と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「ルーマニア王国の参戦と敗北」の解説
詳細は「ルーマニア戦線」および「トランシルヴァニアの戦い」を参照 1916年8月27日、ルーマニア王国がオーストリア=ハンガリーに宣戦布告した(実際には数日前にルーマニア戦線を開いた)。ルーマニアは1883年に三国同盟に加入したが、開戦時点では条約の逐語解釈に基づき中立に留まった。国内でも首相イオン・ブラティアヌ(英語版)率いる自由派は連合国への接近を主張、保守派の大半は中立に留まろうとした。中央同盟国側で参戦することを主張した政治家の1人は国王カロル1世だった。ロシアは1914年10月1日にルーマニアによるトランシルヴァニアへの請求を認めることで合意していた。ルーマニアが第二次バルカン戦争後のブカレスト条約でブルガリアとオスマン帝国から南ドブロジャ(英語版)を獲得しており、またブルガリアが中央同盟国側で参戦したこともルーマニアが連合国側で参戦する一因となった。ルーマニアがオーストリア領トランシルヴァニアの領土、バナト、ブコビナを獲得する「大ルーマニア協定」という連合国との対オーストリア=ハンガリー軍事同盟が締結された。連合国はこの協定を完全に履行するつもりはなかったが、ルーマニアは連合国による8月17日のブルシーロフ攻勢の成功もあって正式に連合国に加入した。数的には大きな優勢を有りつつも装備の劣るルーマニア軍はトランシルヴァニアからハンガリーに深く侵入したが、ファルケンハイン率いるドイツ第9軍(英語版)は9月26日から29日にかけてのシビウの戦い(ドイツ語版)でルーマニア軍を撃破した。ほかにもクロンシュタットにおいて第一次世界大戦では珍しい大規模な市街戦が10月8日まで行われ、オーストリア=ハンガリーがクロンシュタットを占領した。中央同盟国は挟み撃ちでルーマニアに攻撃した。11月23日、ブルガリア、オスマン、ドイツのドナウ軍(英語版)が南西からドナウ川を渡河した。そして、ツェッペリン飛行船のLZ81、LZ97、LZ101と攻撃機も加わり、首都ブカレストが12月6日に陥落した(ブカレストの戦い)。ルーマニアの参戦に乗じて、中央同盟国は1916年中にプロイェシュティの油田やルーマニアの穀倉地帯を占領することができ、同年に始まったドイツにおける供給の不足を補った。ルーマニアはロシアの助力を借りて北東部を辛うじて保持するだけであり、国王フェルディナンド1世は政府とともにヤシに脱出した。
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