ルーマニア王国の介入
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「第二次バルカン戦争」の記事における「ルーマニア王国の介入」の解説
「ルーマニアによるブルガリア上陸(英語版)」も参照 ルーマニアは南ドブルジャを奪取すべく1913年7月5日に軍を動員、10日にブルガリアに宣戦布告した。ルーマニア政府は自国の宣戦布告の目的と戦争での流血が増えてきたことに対する国際での憂慮を和らげるために「ルーマニアはブルガリアの国家組織を降伏させようとも、その軍を撃破しようともしていない」とする外交回状を出した。リチャード・ホールによると、「ルーマニアが紛争に介入したことでブルガリアの情勢はもはや支えられないものとなり、ルーマニアがドナウ川を渡ったことは第二次バルカン戦争の決定的な軍事行動となった」という。 ルーマニアが宣戦布告した日、イオン・クルチェル将軍率いるルーマニア第5軍(8万人)がドブルジャに侵攻、トゥトラカンからバルチクまでを前線として占領した。第5軍の騎兵はブルガリアからの抵抗がないことが明らかになるまでヴァルナ市を占領した。7月14日から15日にかけての夜、フェルディナンド王子率いるドナウ軍がオリャホヴォ、ギゲン(英語版)、ニコポルでブルガリア国境を越えた。最初の占領が完成すると、ルーマニア軍は2隊に分け、1隊は西のフェルディナンド(現モンタナ)に前進、もう1つは南西にあるブルガリア首都ソフィアに向かった。2隊とも本軍が攻める前に騎兵部隊を偵察に派遣した。 7月18日、ルーマニア軍はフェルディナンドを占領、20日にはソフィアから116キロメートル北のヴラツァを占領した。7月23日、ルーマニア軍前衛の騎兵がソフィアまでわずか7マイルのヴラジデブナに入城した。25日にはルーマニア軍とセルビア軍がベログラトチクで合流したため、重要都市のヴィディンが孤立した。ブルガリアの後背は全くの無防備であり、ルーマニア軍は抵抗を受けず、首都ソフィアへの道には何の障礙もなかった。さらに北西部の都市が切り離され包囲された。またルーマニア軍による侵攻の最中、ルーマニア空軍が写真偵察を行い、プロパガンダの小冊子を空中投下した。そのため、ソフィアははじめて敵国の飛行機に上空を侵犯された首都になった。 ルーマニア軍は短期間の参戦において戦闘による被害は生じなかったが、コレラが蔓延したため6千人を失った。
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ルーマニア王国の介入 (第二次バルカン戦争)
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「イオン・クルチェル」の記事における「ルーマニア王国の介入 (第二次バルカン戦争)」の解説
ルーマニアは南ドブルジャを奪取すべく1913年7月5日に軍を動員、10日にブルガリアに宣戦布告した。ルーマニアが宣戦布告した日、イオン・クルチェル将軍率いるルーマニア第5軍(8万人)がドブルジャに侵攻、トゥトラカンからバルチクまでを前線として占領した。第5軍の騎兵はブルガリアからの抵抗がないことが明らかになるまでヴァルナ市を占領した。
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