革命期の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 08:36 UTC 版)
「ヴェルサイユ・ノートルダム教会」の記事における「革命期の動向」の解説
1789年、5月4日、ルイ16世が財政難解決のため170年ぶりに召集した三部会の議員が、まず王族の教会であるここで王とその家族に合流、グレゴリオ聖歌の後、三部会開催を祝すミサに参列するため、王に従って、正面扉から旧市街のサンルイ教会に向かって行進した。教会正面のPlace Hoche(オッシュ広場)にある説明プレートは当時の光景をこう記す:「三部会の議員の行進を迎えるため、ここ、当時のドーフィーヌ広場には、ゴブラン織のタピスリーが敷き詰められた」。 1790年、神ではなく憲法に従うという、聖職者民事基本法を受け入れた、セーヌ=エ=オワーズ司教区の司教ジャン=ジュリアン・アヴォワーヌ(fr)により、ノートルダム教会が司教座教会(大聖堂)に指定される。 1793年、アヴォワーヌ没。後継者がなく、1797年まで司教不在となる。 非キリスト教化運動の中で、教会は、神ではなく人間の理性を崇拝する「理性の神殿」にすべきということになり、あらゆる教会が荒らされ、ヴェルサイユ・ノートルダム教会でも、パイプオルガン(1687-88)、説教壇(1686)、現在後陣の裏にある絵画『聖母被昇天』(ミシェル・コルネイユⅡ世、1686)と三体の木彫以外は奪われたり破壊された。 1797年、セーヌ=エ=オワーズ司教区議長であったオーギュスタン=ジャン=シャルル・クレモン(fr)が、聖職者民事基本法に準じる二代目の司教になる。ノートルダム教会が、革命派による被害をより多く被っていたため、サンルイ教会を大聖堂に変更。
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